映像の嘘と現実 ―アルマイトの栞 vol.9
べつに、どこかのTV番組の捏造騒ぎのことではない。 時折、映画を撮りたいなと思うのである。 学生の頃は年に一本くらいのペースで仲間とビデオで短編映画を撮っていた。 みんな呆れるくらいに時間があったけれど、金は無い。 それでその都度、試行錯誤の繰り返しで工夫をしていたが、それが愉しかった。 莫大な予算を湯水のように使えたら、あんなに愉しくはなかったんではないかと思う。
べつに、どこかのTV番組の捏造騒ぎのことではない。 時折、映画を撮りたいなと思うのである。 学生の頃は年に一本くらいのペースで仲間とビデオで短編映画を撮っていた。 みんな呆れるくらいに時間があったけれど、金は無い。 それでその都度、試行錯誤の繰り返しで工夫をしていたが、それが愉しかった。 莫大な予算を湯水のように使えたら、あんなに愉しくはなかったんではないかと思う。
仕事に少し飽きると、Macを相手にチェスをしてみる。しかし、これが先ず勝てない。チェスのゲーム展開はどこの誰が計算したんだか10の120乗の組合せなんだそうで、Macがそのどこまでを先読みしているのかは知らないが、少なくとも僕よりは先を読んでいるんだろう。さすがはコンピュータである。 しかも、Macの奴は自分のコマを動かす時に「ビショップをbの4へ」とか喋るんである、英語で。で、S. キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』を思い出した。
ぶらっと珈琲を飲みに入ったカフェの店内でビートルズの曲が流れていた。 「デイ・トリッパー」のオリジナルバージョンを聴いたのは随分と久し振りのことだ。 中学生の時に何故か友人の間でビートルズが流行り、僕も一緒になって聴いていたので、ビートルズの曲はこの時期の記憶に繋がるものが多い。「イエスタディ」はギターで練習したな。思春期の恥ずかしい思い出の一コマである。
音楽と云うのは記憶と強く結びつきやすいようで、ある時期に集中して聴いていた曲ほどその当時の記憶が映像的に蘇ってくる。時にはその場面の中での自分の気分まで。そうかと思えば、その記憶と現在の自分が手を結んで新たな思考を巡らせる切っ掛けにもなる。
何故か昨年あたりから、80年代について語られた本を立て続けに読んでいる。発端は宮沢章夫氏の「80年代地下文化論」(白夜書房)だった。80年代に興味のある人には是非お薦めの一冊である。80年代と云う時代は、何かいまだに捉えようのない、しかし際立って特徴のあった時代として記憶の中にある。同世代の友人と集まると、「80年代とは何だったのか」と云う話題になることもしばしばである。そんなわけで、立て続けに80年代を論じた本を読み、僕なりに考えを巡らせたりしているわけである。
そろそろ年度末である。ここ数年、この時期になると赤ボールペンを握って自宅にカンヅメになる日が続く。国際演劇協会(ITI / UNESCO)日本センターが年度末に刊行する「THEATRE YEAR-BOOK」の校正作業である。200ページくらいはある英語の本の原稿を読みつつ、元の日本語原稿と見比べて、翻訳に誤りが無いか等々をチェックするわけだが、ジャンルによってはかなりこちらのアタマを悩ませる内容がある。日本の伝統芸能である。能とか歌舞伎とか文楽とか日本舞踊について英語で読まされることほどヤッカイなことは無い。