人工知能と占い ―アルマイトの栞 vol.8
仕事に少し飽きると、Macを相手にチェスをしてみる。しかし、これが先ず勝てない。チェスのゲーム展開はどこの誰が計算したんだか10の120乗の組合せなんだそうで、Macがそのどこまでを先読みしているのかは知らないが、少なくとも僕よりは先を読んでいるんだろう。さすがはコンピュータである。 しかも、Macの奴は自分のコマを動かす時に「ビショップをbの4へ」とか喋るんである、英語で。で、S. キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』を思い出した。
映画の中で、宇宙飛行士が人工知能のHALとチェスをするシーンがある。HALもやはりコマの動きを喋る。そしていつも飛行士は勝てない。コンピュータが喋ると云うことが、コンピュータの妙な「人間らしさ」を感じさせる原因である。その点はMacも同じで、HALと違うのは雑談に応じてくれないことだけだ。もしMacがHALみたいな奴なら、チェスに負けた僕にHALと同じセリフを吐くだろう。「ミスをするのはいつでも人間の方です」。
人工知能の「人間らしさ」とは何だろう。「喋る」と云うのも一つの要素かも知れないが、人生相談にでも応じてくれなければ「表面的」である。HALはこの点でかなり人間的だ。とは云え、HALも何やら無機質な奴である。HALが云う様に「ミスをするのはいつでも人間」なのであって、人工知能はミスをしないわけであり、ここに「彼等」と人間の決定的な差がある。どんな事柄に対する時でも可能な限りの組合せと確率を瞬時に検討し判断するのは文字通り「人間ワザ」では無い。
と云うことは、ミスをすれば人間らしいのか。どうもこれはこれで怪しい気がする。コンピュータ相手のチェスに勝ってしまうワケのわからない人間も現に居る。それでもきっとチェスに負けたコンピュータに「暖かみ」とか「同情」を感じることは無いと思う。結局コンピュータは与えられたデータの中において可能な限りの組合せと確率を検討しているだけで、人間相手のチェスに負けたところで、それは人間から与えられたデータの不備が原因であり、コンピュータ自身のミスでは無いわけだ。ここでもやはりミスをするのは人間の方である。何だかコンピュータはイヤな奴だ。
組合せと確率の判断と云うことで考えれば、やはりその一種である占いはどうか。実際にコンピュータを使う占いもある。ただ、この場合チェスと違うのは、コンピュータが一方的に占いの結果を告げるだけで、「ゲームの相手」として人間と「対称」では無いことだ。あくまで「一方通行」である。占いの結果に異議を唱えたところで、コンピュータは「確率の問題です」などと答えるのであろう。これではますますコンピュータに「人間らしさ」を感じられない。
占いにとって重要なのは当たるか当たらないかでは無く、それを信じるか信じないか、もしくはその結果に影響されるかどうかなのだと思う。どんな占いの結果が出たにせよ、それを完全に無視する人にとって占いは無意味である。しかし全く占いを信じないと云う人であっても、「今日の仕事運は下降ぎみです」と云われたら、やはり何だか好い気がしないし、気になるものだ。「ラッキーポイントはカツ丼」なんて付け加えられたら、胃の調子が悪いのにカツ丼を食べてしまうかも知れない。たぶん、占いにおける「人間らしさ」とはこの点にある。当たり外れの問題では無い。
つまり、コンピュータに向かって占いの結果を告げて、それにコンピュータが影響されたら「ゲームの相手」として人間と「対称」になるわけだ。ここでコンピュータは「人間らしさ」に一歩近づくかも知れない。Macに向かって「あなたの製造年月日は2005年1月7日で山羊座です。山羊座のあなたは・・・」とか入力してみる。Macは自分が理論一辺倒の理屈屋であることを指摘されて少し嫌気が差し、芸術の素養があると云われて些かの自信を持つ。随分と「人間らしい」コンピュータである。このMacはExcelの作業ではトラブルを起こしがちになり、Illustratorでは常に快調だろう。
だがよく考えてみよう。そんな人工知能は便利なんだろうか。限りなく人間に近い人工知能を開発すると云うことは、突き詰めていけばコンピュータに優柔不断を求めると云うことではないか。それって何だか本末転倒な話である。そんなことをするなら人間だけで充分なわけで、わざわざ高額な予算を投じて「人間らしさのコピー」を作ることの意味は失せてしまう。その日の運勢でロケットなんぞを飛ばされては迷惑である。まあ、面白いとは思うけどね、「山羊座でB型の人工知能」とか。だけどさ、そんな人工知能に宇宙船の操縦を任せる勇気は無いな。と、山羊座でB型の僕は思う。
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