翻訳とルビ ―アルマイトの栞 vol.5
そろそろ年度末である。ここ数年、この時期になると赤ボールペンを握って自宅にカンヅメになる日が続く。国際演劇協会(ITI / UNESCO)日本センターが年度末に刊行する「THEATRE YEAR-BOOK」の校正作業である。200ページくらいはある英語の本の原稿を読みつつ、元の日本語原稿と見比べて、翻訳に誤りが無いか等々をチェックするわけだが、ジャンルによってはかなりこちらのアタマを悩ませる内容がある。日本の伝統芸能である。能とか歌舞伎とか文楽とか日本舞踊について英語で読まされることほどヤッカイなことは無い。
内容以前に、そもそも「市川團十郎」なんて名前をアルファベットで綴られると咄嗟には何と読むのか判断できないのである。「Ichikawa Danjuro」。それでも團十郎はまだどうにかアタマの中で漢字に変換するから好い方で、「Hujima Kanshie」なんて書かれて「藤間勘紫恵」は変換しないだろう、普通。漢字で書いてあったって読めない。こう云う奇異な人名の洪水なのである。人間国宝だらけの伝統芸能界は悲しいかな毎年の様に訃報のオンパレードでもあるので、とにかく人名との格闘は避けて通れないのである。加えて、演目名が更なる拍車を掛ける。いきなり「Iwashiuri Koi no Hikiami」なんてことになるわけで、余程の歌舞伎通でもなければ「鰯売恋曳網」は出てこない。
単に「咄嗟に読めない」くらいのことだけならば、「馴れれば好い」と云う結論に落ち着く。実際、この仕事を請け負って随分になるが、かなり馴れてきたことは確かだ。
問題は更に先にある。英訳するにあたって、演目名の英訳も付けるのが原則と云うことになって居り、日本人にとってさえ不可解な演目名に更に不可解な英題が付いてくるのである。「曽根崎心中」を「Sonezaki Shinju」と書くまでは仕方が無いとして、それを「Love Suicide at Sonezaki」と訳すことはどうなのか。確かに、「曾根崎」で「恋愛的自殺」をする話ではあるが。
日本語の機微と云うか、何か微妙なニュアンスが英訳だと出せないことに原因がある様だ。
そう考えると、逆に和訳の場合はかなり旨いニュアンスの出し方が容易に可能な様で、これは恐らく「ルビ」と云う裏技が許されるからだと思う。
もう二十年くらい前にレイモンド・カーヴァーの小説を読み漁っていた時期がある。邦訳は尽く村上春樹である。確か「ぼくが電話をかけている場所」(中央公論社)所収の短篇に見付けたのだが、家を出て行く母親が子どもに書き置きを残して、その最後に「LOVE」とある。しかし村上春樹はそのルビに「じゃあね」と書いたのだ。これは旨いと思った。同じ「LOVE」でも使われ方で様々なニュアンスがある。その「LOVE」をそのまま書いておきながら、ルビでニュアンスを出すやり方に日本語表記の可能性を感じたのである。
そしてその後に気付いたのは、ルビの裏技的用法を縦横無尽に駆使して居るのがSFのジャンルだと云うこと。特にウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」(ハヤカワ文庫)なんかの邦訳を手掛けている黒丸尚は「ルビ・マスター」である。そもそも80年代のサイバーパンクSF全盛期に「電脳空間」と書いて「サイバースペース」とルビを付けたのは彼あたりの仕業ではなかったか。何せ、彼らSF翻訳家のルビの使い方は格好良かったのである。「素子」と書いて「チップ」とルビがあるのは基本である。ルビが使えるからこそ可能な、あまり一般的ではない漢字熟語の使用も多い。「与信」と書いて「クレジット」と云った類である。
しかし、半ばパラノイア的にルビを使う傾向もあるようで、ウィリアム・ギブスン「カウント・ゼロ」(ハヤカワ文庫)だったか、「BMW」と書いて「あし」ってのがあって笑った。「旦那様」で「セニョール」ってのもどうかと思うが。ともかくある種の作品世界観を構築していることだけは間違いがない。
さて、英語にはルビに該当するものは無いのだろうか。まあ少なくとも日本語のルビと同様の表記法は無い。しかし一つ思うのは「切り裂きジャック」を「Jack the Ripper」、「猫のフェリックス」を「Ferix the Cat」と書くやり方である。この「the」を挟む表記は、その前後の単語が相互にルビ的な関係を築いているように思えるのである。とは云え、日本語のルビの様に「実体」と「影」のような一体感を出すまでにはならない。断っておくけれど、日本語の方が英語より優れていると云う主張ではない。
で、「曽根崎心中」である。どうしたものだろうか。ともかく直訳的な発想がいけない様にも思う。いっそのこと、このサイトで翻訳を募るか。英訳を考えて欲しいのは「曾根崎心中」の他に「女殺油地獄」「盟三五大切」「国性爺合戦」「菅原伝授手習鑑」「伽羅先代萩」「本朝廿四考」「与話情浮名横櫛」。
そもそも正確に読める日本人がどれほど居るのか怪しいとは思うけれど。
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