Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

3%と33%のミニシアター ―発見する場所03

昨年の秋のこと。大分に行った際、文化の試みを展開する上で幾つか面白い話に接する事が出来た。 最も興味深かった話は、映画館についてのことだった。 全国的にも名高い湯布院映画祭の運営に長年関わって、20年近く大分市内でミニシアター(シネマ5)を経営している田井さんの話だ。

大分でも他の地方都市と同様に郊外に出来るシネコンの影響で映画館が街中から無くなり、今は、街中の田井さんのシアターだけになっている。 シネコンのスクリーンを各1つ(10ブースが有れば10)カウントすれば、全部で27あるそうだ。 一方田井さんの映画館は1つ。 つまり、大分の3%だ。 一方、大分での一年間公開される映画の本数は、270本。だがそのうち、田井さんの映画館では90本公開されている。 やっている内容は、デンマーク、フィンランド、南米等大手の配給会社に乗らない作品である。 3%のスクリーンで、全体の1/3の本数の映画を上映しているのだ。 例えば、仮に田井さんの映画館が無くなれば、大分での映画の公開本数は1/3に減る。 現実的に田井さんの映画館に足を運ぶ客は決して多いとは言えないし、失礼かもしれないが決してあり得ない事ではない。むしろ、ここまで続いている田井さん達の努力と熱意は並々ならぬものだったはずだ。

では、映画館が無くなるとは何か?

映画の場合は興行が、完全な受益者負担で成り立っており、映画館が無くなるとは、そこへ来る客が減った結果でもある。 要するに、市民に必要とされなくなったとも言い換える事が出来る。 だが、一方このような捉え方をすることもできる。 例えば、どんな地方の小さな街であっても、その街の最後の映画館が無くなれば、恐らく地方の新聞記事の片隅に、「○○街の最後の文化の灯火が消えると」。 客が来なくなって、その街の人達には必要とされなくなているにも関わらず、そのように報道される根底には、映画の公的な部分への共通認識が日本の中で存在していることを示していると田井さんは語る。
それは、例えば田井さんの映画館で映し出される映画の多くは悲惨な人生を送る主人公が多い。その主人公を幾らかのお金を払って、時間を費やして見に来ることは、立派に生きる事だと。 その生きる場が沢山ある事が街をつくっていく。

この一連の田井さんとの会話は、都市の中で文化を生み出し続ける重要な側面を物語っている。 芸術は保護する対象では無く、確実に生きる力を生んでいる。 人が全うに生きれば、消費という側面で街と関係していく。 この当たり前のプロセスを、もう少しそりゃそうだと認めて良いのではないだろうか。 3%が存在している現実とそれが作り出している世界は意外に広くて深い。

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