80年代と未来 ―アルマイトの栞 vol.6
何故か昨年あたりから、80年代について語られた本を立て続けに読んでいる。発端は宮沢章夫氏の「80年代地下文化論」(白夜書房)だった。80年代に興味のある人には是非お薦めの一冊である。80年代と云う時代は、何かいまだに捉えようのない、しかし際立って特徴のあった時代として記憶の中にある。同世代の友人と集まると、「80年代とは何だったのか」と云う話題になることもしばしばである。そんなわけで、立て続けに80年代を論じた本を読み、僕なりに考えを巡らせたりしているわけである。
80年代について論じた多くの本では、その時代性について、60年代から70年代にかけての「政治の季節」や70年代からの「シラケムード」と80年代を対置させ、「オタク文化」を大きな潮流の一つとして語るものも多い。また、「オタク文化」が花開く一方での「ニューウェーブ」と云う文化現象を語るものもある。どちらかと云えば、小学生でYMOなんかにのめり込み、スネークマンショーを喜んで聴いていた僕は「ニューウェーブ」の側に居たのかも知れない。とは云え、「ガンプラ」も作りましたけどね。
しかしである。僕の中に奇妙に引っかかる80年代は、そこで語られていた「未来」のイメージを特徴としている。小学生の頃から科学雑誌「Newton」を定期購読していた僕は、「21世紀には」と云う冠のついた様々な特集を読み、ほぼ疑うことなくそれを信じていたわけである。
そう考えると、まあ見事に当てが外れたものだ。本当なら、もう僕等は地球を出て、スペースコロニーだの火星だのに住んでいた筈で、当時の僕は「もうそのころ、自分は30歳を超えているんだなあ」などと妙な感動に浸って雑誌を眺めていた。
だが今のところ、21世紀は「地球の時代」のままである。 たった数人の人間を地球の外へ連れ出すだけのスペースシャトルは相変わらずあんなに大仰な姿だし、そもそも本体よりもバカでかい燃料タンクを抱きかかえて飛んで行く様は何やら理不尽な滑稽さを帯びている。打ち上げているモノの大半が燃料と云う不条理。真剣に取り組んでいる人たちには申し訳ないのだが、笑ってしまうんである。どう考えたって、僕等が普段着で宇宙へ出て行けるのはまだまだ先だ。
いま、実際にここにある21世紀は、茶の間に家電製品と化したコンピュータがあり、しかもそれらがどんどん小型化すると云う「未来」である。この「未来」を云い当てていたものが80年代にあるとすれば、それは「Newton」よりも大友克洋の「アキラ」だったり、ウィリアム・ギブスンに代表されるサイバーパンクSFの方であり、これは当時の云い方をすれば「ニューウェーブ」に属するものでもある。 何も「ニューウェーブ」が正しかったと云う話では無くて、単に手塚治虫的な未来が到来しなかったと云う話だ。「Newton」の描く未来は極めて手塚治虫的だったのである。
冷静に考えると手塚治虫的な未来と云うのは、どこかファシズム的な雰囲気がある。何せ行き交う人々はみんな胸に矢印みたいな模様のある同じ服を着ていたりする。これは制服だろう。都市の景観は明らかに一つの強力な意志を反映したとしか思えない同じような建物群で構成されている。
現在がそう云う「未来」ではなくてつくづく好かったと思う。そんな世界は生きるのに魅力がない。
しかし確かに21世紀なんである、今は。どうもピンと来ないのだが。 この「ピンと来ない」感が明らかに80年代の洗脳の結果である。 思春期の少年にそれほど強い洗脳を施した80年代の力とは何だったのだろうか。あの時代に「科学」や「未来」に関する言説を牽引していたイデオローグ達は、僕等に何かを仮託していたのだろうか。
その「仮託されたもの」が何か一つの大きな物語のようなものであったとすれば、60年代から70年代までの「政治の季節」が持っていたマルクス主義的な大きな物語が80年代にはその効力を失っていたのと同じく、科学の言説の大きな物語は80年代の終わりと共に失効してしまったのではないかと思う。 現に、「未来は」と云う冠のついた表現を聞かなくなったのがこの「21世紀」である。
こう考えてくると、いまの子ども達に、彼らの持つ「未来」のイメージがあるのか否か、あるとすればそれはどのような「未来」なのかを尋ねてみたい気分になる。「未来」についてのイデオロギーは最も強く子どもに影響する筈だからである。
尋ねてみたら尋ねてみたで、相変わらず「宇宙旅行」なんだろうか。もしそうだとすれば、未来に対する大きな物語もマルクス主義と大差無く、永遠に先延ばしされた約束のようなものである。人はそれを「幻想」と呼んだりもするわけだが。
とは云え、せめてそろそろ自動車が浮いても好いのではないかと思う僕なのである。
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