Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

彼は踊って灰になる ―アルマイトの栞 vol. 56

鈴木一琥さんのダンス公演『3.10 10万人のことば』は今年も無事に終了した。このシリーズも今年で5回目で、Tetra Logic Studioが関わって3回目である。年々この企画のことが広く知られるようになって、今年はNHKワールドの取材が入った。日本の様々な情報を海外に発信するメディアだが、今回の公演のことを見ることが出来る(公開終了しています)。海外の人が、鈴木一琥と云う日本人ダンサーのこの試みをどのように受け止めるのか、是非とも知りたいと思う。

鈴木一琥さんと初めて会ったのは2007年の2月の終わりか3月の始めである。この年のシリーズ3回目になる『3.10』公演への協力要請が、ある人を介して僕らのところへ転がって来た。それで、ともかく顔合わせを兼ねての打ち合わせをしに、公演会場でもある浅草のGalley efへ出掛けたのが彼との初対面である。企画の趣旨はある程度事前に聞いていたものの、「鈴木一琥」が何者であるのか、僕は全く知らなかった。この仕事を僕らに紹介してくれたMさんの話では「舞踏家」だと聞いていた。Mさんは僕がかつて暗黒舞踏に関わっていたことを知っていたから僕らを呼んだらしい。初対面に向かう道すがら、僕は少し身構えていた。踊りなどの身体表現には様々なジャンルがあるけれど、中でも「舞踏」となるとどんな相手が出てくるか知れたものではないのだ。いずれにしたってかなりなクセ者が現れる公算が高い。

しかし、僕の警戒心とは裏腹に、初めて会った鈴木一琥さんは極めて穏やかな紳士だった。踊り手としてのオーラみたいなものは確実に放っているが、「舞踏」の世界で出遭う「わけのわからない人」ではなかったので、いささか肩すかしを食らった。あとで知ったことだが、彼は「舞踏家」とは名乗っておらず、「ダンサー」と名乗っていた。ここには明確な違いがあるのだが、実のところ、世間では「十把一絡げ」に認識されていることが多い。とにかく彼は「ダンサー」だったし、作品に込めた思想を語るコトバは明快だった。

警戒心を持ちながらも『3.10』の企画に僕が興味を持ったのは、自分と同世代の戦争を知らない日本人アーティストが、「踊り」を通じて60年以上前の戦争の記憶を消すまいとしている姿勢に何かシンパシーを感じたからである。僕自身、何か「この国」の様子がキナ臭い方向へ向かっている様な気持ちの悪さを感じていた矢先でもあった。もう随分前に柄谷行人の『戦前の思考』を読んだ時にはピンとこなかったが、今になって「この国の現在」が確かに「戦前」に極めて似ていることを不気味に思っていたので、鈴木一琥さんとの出逢いは僕にとって必然的なことの様に思われた。僕らは戦争を知らないけれど、僕らの両親や祖父母は何らかのカタチであの戦争に巻き込まれている。そこで一歩間違えば、僕はここに生まれていないわけで、その意味であの戦争は僕らと無縁では無い。僕らの存在にハッキリと関わってくる出来事である。

『3.10』は声高に「戦争反対」を叫ぶ作品では無い。もし、この作品が声高の「戦争反対」を叫ぶようなアーティストの主張を一方的に観客に押しつけるものだったら、僕は作品に関わることをやめただろう。敢えて関わったのは、作品の受け手が、それぞれの中で戦争について考えを巡らす自由があったからだ。どんな主張も一方的に押しつけられるのは、それが正論だろうと何だろうと不健全な全体主義に陥りがちで、その末路は「内ゲバ」みたいなことになってしまうものだ。それは戦争と同じ程度にくだらないことだと思う。

鈴木一琥は自由に踊っている。彼が作品に込めた思いは観客に向かってコトバで発せられるものでは無い。だから、完全に鈴木一琥と思いを共有している者は居ないだろう。ただ「戦争について考える」。それだけで好いのだと、僕は思う。毎年、彼の踊りが終われば当然の様に観客は拍手を送る。そして僕はいつでも一瞬躊躇する。「その拍手は何に対して送られているのか」。僕なりに作品を観て考えを巡らせていると、僕はどうしても安易に拍手が出来ないのだ。確かに鈴木一琥の踊りは素晴らしい。その一点だけを観れば、拍手による賛辞は当然である。しかし、僕の巡らす思いの結果は、安穏と拍手をする気持ちに向かわないのだ。それはたぶん、表現や作品を飛び越えた向こう側の「何か」に僕が連れ込まれてしまう結果なのだと思う。それが何なのか、僕にはまだ明確なコトバで表すことが出来ない。

だからこれからも鈴木一琥の試みを見続けようと思う。彼はこれからも踊り続けるだろう。踊って踊って、灰になるまで踊るだろう。それでも僕の思いは明確なカタチにならないかも知れない。それはそれで好いと思う。鈴木一琥が与えてくれたテーマを考え続けること自体が何よりも重要なのである。現在の「この国」において、鈴木一琥は希有な表現者である。それだけは確かなことである。疾駆する様に踊る鈴木一琥の振りまく灰が広がることに僕らも手を貸し続けようと思う。

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