ニュータウンと云う場所 ―アルマイトの栞 vol.33
三軒茶屋のシアタートラムで宮沢章夫さん作・演出の『ニュータウン入口』を観たのだった。大規模な集合住宅や山を切り崩して戸建て分譲の宅地開発をして作られる、あの「ニュータウン」の話だ。そして何の偶然か、いまやっているTetra Logic Studioの仕事と舞台の物語が奇妙な一致をしたのである。物語は「新宿まで電車で30分」の新規分譲地のニュータウンが舞台だ。この設定で具体的な場所はおのずとわかる。その分譲地を若い夫婦が購入して家を建てることを考える。夫婦の夢はその新居でささやかな喫茶店を経営すること。これって、明らかにいま僕等が関わっている仕事の一つそのままではないか。終演後、宮沢さんにその話をしたら向こうも驚いていた。
そんな偶然もあって、舞台を興味深く観た。そして「ニュータウン」と云う場所の不可思議さを改めて考えたのである。そこは「田舎」でもなければ「都会」でもない。その中間のような「妙に清潔」な人工都市である。よく田舎に行くと、常にどこかで誰かが近所を見ていて、隣家の夕食が何かまで知っていたりする。そして少しお節介な人がいて、「もらい物なんだけど、これも食べて」なんて云って持ってきたりするのである。「他人への視線」があり「生活への介入」がある。これが地域のコミュニティの基礎になっているのだと思う。都会ではそんなことは先ず滅多にない。隣の夕食はおろか、誰が住んでいるのかすら知らない状況が至る所にある。「視線」も「介入」も無いのだ。
では「ニュータウン」ではどうか。僕が個人的に感じる限りでは、先ず確実に「他人への視線」は存在している。新しい分譲地にどんな人間が住むことになるのか気にしているのである。そして実際に誰かが近所に住み始めた時、その新たな住人への興味の視線が注がれている。ここまでは「田舎」と同じだ。しかし「田舎」と違うのは「よかったらこれも食べて」と云う「介入」がほとんど発生しないことである。この点では「都会」と同じで、つまり「ニュータウン」は田舎と都会の中間の性質を持った不思議な場所なのだと云える。
「視線」はあるけど「介入」は無いと云うのは「向こう三軒両隣」の関係だけではない。かなり広範囲に亘ってニュータウンでは「視線だけの関係」の傾向がある。以前、知り合いの役者が、やはりニュータウンと呼ばれる場所で一人暮らしをしていた。彼女は夜毎に近所のレンタルビデオショップで趣味の映画を借りていた。そしてある時、初めて知り合いになった別の役者にいきなり云われたそうだ。「ヒッチコックとかが好きなんですよね」。彼女は占い師にでも出会ったかのように驚愕したそうだ。そりゃあそうだ。図星だったんだから。新しく知り合ったその役者は彼女と同じニュータウンに住み、彼女が行きつけのレンタルビデオショップでバイトをしていたのだ。因みに「ニュータウンのレンタルビデオショップ」と云うのも『ニュータウン入口』のモチーフの一つだったので僕は驚いた。
「ニュータウン」と云う場所では、このレンタルビデオショップの話に象徴されるように、「消費する人」も「働く人」も同じニュータウンの住人であることがよくある。スーパーの買い物客とレジのパートのように。この関係は、他人の生活を覗こうと思わなくても、結果として覗いてしまう関係を生む。だからと云って、ある家の夕食がカレーだと知ったレジのパート主婦が、その家に「福神漬けもどうぞ」なんて云って持ってくることがあるわけはないのだ。あくまで「視線」だけの関係だ。
この関係は「地域のコミュニティ」を考えるとき、どうなんだろうか。好いことなのか悪いことなのか。正直なところ、いまの僕には提示する答えが無い。個人の趣味に帰結する話だと云ってしまえばそれまでである。しかし「視線だけの関係」からどのような「コミュニティ」が生まれるだろうか。結局「視線だけ」で終わってしまいはしないか。地域が平穏無事な日々を過ごしている時はそれでも何の問題も無いだろう。しかし防災や防犯と云う観点で眺めた時、その状況は何だか頼りなくはないか。「それなら都会はもっと不安だ」と云われるだろう。うん、同感だ。しかし「ニュータウン」の中途半端な関係は「頼れそうで頼れない」微妙な関係ではないかと思う。考えが堂々巡りをしているな。もう少し考えよう。そして宮沢さんにメールでも出してみよう。熟考する機会を与えてくれたと云うこと一つだけで『ニュータウン入口』は有意義な舞台作品だったと思うのだ。
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