ルビッチの笑い ―アルマイトの栞 vol.26
TSUTAYAでエルンスト・ルビッチが監督した映画『生きるべきか死ぬべきか』(To Be or Not to Be)を借りてきた。10年以上も前に吉祥寺かどこかの映画館で観て以来である。それまでルビッチのことをよく知らずにいたのだけど、この作品を初めて観た時、ルビッチの笑いのセンスが気に入って、もう一度観たいと思っていたのだ。因みに『生きるべきか死ぬべきか』は1942年にアメリカで封切られた映画だが、ルビッチ本人はドイツ出身。マックス・ラインハルトの劇団などに関わった後に渡米し、アメリカでコメディ映画をいくつも監督として手掛けている。
『生きるべきか死ぬべきか』は、当然シェークスピアの『ハムレット』の台詞から取られたタイトルである。ナチスが侵攻する少し前のワルシャワで、『ハムレット』を上演している一座があった。ハムレット役の俳優は妻である女優と一緒に舞台に出ている。そして毎晩客席には妻のファンである空軍中尉が居る。二人は夫に内緒で会う約束を交わすが、女優は中尉に「ハムレットの長台詞が始まったら私の楽屋に来て」と手紙を送る。夫の俳優が舞台で「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」と始めると、中尉はガタガタと音を立てながら客席から出て行く。夫の俳優は「自分の演技がダメなのか」と落ち込む。気を取り直して次の晩の公演に臨むが、また長台詞を始めると客席を出て行くヤツが居る。
こんな晩を繰り返すうちにナチスがポーランドに侵攻し、ワルシャワもナチスの占領下となる。ナチスに抵抗する地下組織とともに、芝居の出来なくなった一座もナチスに抵抗してナチスのスパイを排除し、ナチスに一泡吹かせてワルシャワを脱出する計画を練る。芝居ならお手の物で、ナチスの軍服も舞台衣装として持っている。ナチスのスパイや将校に巧みに化け、挙げ句の果てにはヒトラーまで演じて本物のゲシュタポ達を翻弄するのである。その一つひとつのシーンが絶妙のユーモアと笑いに包まれていて、とにかく観ているこちらは笑いっぱなしとなる。
こんな映画を1942年と云う時代に、しかもドイツ出身の監督が撮っていることは驚きである。ナチス・ドイツがポーランドへ侵攻したのは1939年だから、1942年と云えば、まさにワルシャワで対ナチスの抵抗運動が行われていた頃である。しかし、この映画ではナチスへの抵抗を深刻に描くのではなく、あくまでユーモアをもって、当時のナチスと云う権力を笑い飛ばすことに終始している。そして、観ていて思うのである。「芝居をする人ってのはホントに素晴らしい」と。だって、役者が母国を守るのだ。知恵を巡らし、機転を利かせ、扮装と演技で敵を翻弄していく。そして映画はナチスと云う権力を笑いものにする。素敵だ。
権力批判と云うものは、得てして「もう一方の権力」として為されることが多いけれど、これはこれで胡散臭くもある。僕のように何らかの権力にすり寄ることを嫌う人間にとっては、「既成の権力」も「対抗権力」も同じ「権力」に過ぎない。どちらも信用ならないプロパガンダかアジテーションとしか見えないのである。そうして残るのは権力を「笑いもの」にすると云うことだ。腹を立てたり苛立ったりナーヴァスになったりするよりは健康的である。権力の行使として行われることは「茶番劇」がほとんどなんだからさ。生真面目でヒステリックな批判に晒されるよりも、笑いものにされるほうが権力側だってイヤなんではないかと思う。
ナチスも含めて、何らかの「権力」を握った人間と云うのは、滑稽なことを大真面目にやっている。大真面目に為される滑稽さが暴走すると、結果としていつだって人間は取り返しの付かないロクでもないことをしでかすんである。そこに権力の怖さがあるのだと思うけれど、それならいっそのこと、彼等がいかに滑稽であるかを指摘してやったほうが好いのではないか。そのためには「笑い飛ばす」ことが一番だ。『生きるべきか死ぬべきか』はそんなことを教えてくれる映画である。笑いに飢えている人には是非お薦めの一作。いまの僕等を取り巻く社会だって、笑い飛ばしでもしなければやりきれないことが無数にあると思うのだ。
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