Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

方向音痴と劇場 ―アルマイトの栞 vol.25

方向音痴なんである、実は。これがちょっとやそっとのレベルではなく、もう半端ではない方向音痴ぶりである。駅から徒歩10分の筈である場所へ1時間掛けてたどり着いたなんてことは一度や二度ではない。子どもの頃からそれなりに馴染みのある筈の渋谷の街で、いまもって迷子になる。知らない土地へ行った日にはもう大変で、「初めてのおつかい~大人編~」が撮影出来るのではないかと思うほどの方向音痴ぶりである。自信満々で正しい方向と逆の方へ行ってしまう。それで、「自信のある方向とは故意に逆へ行く」と云う解決策を思いついてみたが、これがまた何故かホントに逆の方向なんである。こんな人間がよくもまあ建築なんて分野に片足を突っこんでいるものだと、自分でも感心する。

一つの原因は「道を憶える気が無い」と云うことだ。どうやら人に付いて歩いている時ほどこの傾向が強い。混み入った裏路地の中にある穴場の呑み屋なんかに連れて行かれる時なんて、ただひたすら相手に付いて歩いているだけで、どこをどう歩いたか記憶が無い。まだ酔っていないと云うのに。酔ったら尚のこと始末の悪い結果が待っている。それなら京都のように街が碁盤目状に整然と出来上がっている場所では迷子にならないかと云うと、これまたそうではないのである。どこも同じ風景に見えてしまうのがいけない。「さっきも通った」と思うその道が「さっきは通っていない」道だったりするのだ。

こう云う極度の方向音痴にとって、最大の敵は劇場の舞台裏である。劇場の舞台裏を一度でも歩いたことのある人なら解ると思うけど、舞台裏と云う場所は大抵見事なまでに迷路になっている。ヤッカイなのは、水平方向だけの迷路ならまだしも、下は舞台より低いレベルの奈落から、上は舞台より遙かに高いレベルのキャットウォークまであるわけで、つまり鉛直方向も階段を使った迷路になってしまうのである。そしてこれに拍車を掛けるのが「どこにも窓がない」と云うことだ。窓があれば、外の景色を頼りにすることが出来ると云うのに、全くその手掛かりが無いのである。「どうぞ迷ってください」と云われているようなものだ。大学の調査をはじめ、随分といろんな劇場の舞台裏を歩いたけど、迷路としてのレベルの高さを誇るのは東京の初台にある「新国立劇場」と三軒茶屋にある「世田谷パブリックシアター」である。一応断っておくけれど、「迷路のレベルが高い」と云うのはべつに「設計が悪い」と云うことではない。劇場の機能から云って必然的にそうならざるをえないので、この話は設計の善し悪しを指摘しているわけではないのである。あくまで迷子になる側の問題だ。

こう云う劇場の舞台裏に学生を引き連れて入って、一人の学生に「ちょっと荷物を置いてきた場所から忘れ物を取ってきてくれないかな」と云ってみる。面白いことになる。先ず荷物の置き場所まで無事に戻れる可能性は低い。仮にどうにか戻れたとしても、今度は僕の居る場所まで短時間で帰ってくることは稀である。そして残念なことに舞台裏ではえてして携帯電話の電波が入らなかったりする。孤立無援だ。図面を持っていなかったとすれば結末は悲惨である。図面を持っていたとしても適度に悲惨だと云うのに。一番この種のイジワルを仕掛けてみたいのは新国立劇場の舞台裏なのだけど、残念なことにこれが出来ない。この劇場はセキュリティが堅くて、舞台裏のどの扉を通過する時でも職員専用のカードキーが必要で、キーを貸してもらえない限り、部外者が勝手にうろつくことは出来ないからだ。因みに云い忘れたけど、無闇に扉が多いことも劇場の舞台裏が迷路になる要因である。でも絶対に大変なことになると思うんだ、新国は。何だか航空母艦のような舞台裏で、劇場スタッフが自転車で移動したりするような広さである。是非とも学生を一人で置き去りにしてみたい誘惑に駆られる。

なんで方向音痴の自分が学生にこんなイタズラを仕掛けるかと云うと、何故か僕は劇場の舞台裏で迷子になったことがないのである。これは奇跡とも云うべきことだ。しかし、これには理由と云うか、舞台裏を歩くコツがあるからなんである。そもそも自分が方向音痴だと云う自覚があるから、事前に警戒心が高まる。それで先ずは「迷路」に入る前になるべく詳細に図面を見ていく。しかしこれだけでは全く不十分で、学生だって事前に図面を見ていながら実際には迷子になる。「迷路」を歩く時にやるべきことがあるのだ。それはアタマの中で舞台の位置を基準にして、自分がいま、舞台に対してどの位置に居るかをイメージすると云うことである。劇場では客席から見て舞台の右を「上手(かみて)」、左を「下手(しもて)」と云うけれど、舞台裏を歩きながら自分が舞台の「上手」「下手」のどの辺りに近いかをイメージ出来れば迷うことはない。それだけのことだ。但し「回り階段」は要注意である。ここで混乱したらアウト。

しかし、一度試してみたい別の舞台裏の歩き方がある。ある人に云われたのだが、迷路に入る時に例えば右手で右側の壁を触り続けながら歩く。帰りは逆に左手で左側の壁を触り続けて歩けば無事に元の位置へ戻ることが出来る。うん、正しい理屈だ。これで劇場の舞台裏を歩けばどう云うことになるのか、試したい。そんな酔狂な暇人に付き合ってくれる劇場はないだろうなあ。先日も仕事で兵庫県立芸術文化センターと云う劇場に行った。これもまたかなり広い劇場である。劇場のスタッフに案内されて舞台裏を一通り歩きながら、なんとなくアタマの中で「壁を触って」歩いていたのだが、結局スタート地点とゴールが違う場所だったので実験の成果は判らなかった。そもそも何をしに行ったんだ、オレは。

三国志に出てくる諸葛孔明は敵軍に対して迷路を造って敵の進軍を不利な方向へ追い込んだとか云う話があるけれど、敵軍は劇場の舞台裏へ誘い込むのが一番なんではないかと、なんだかワケの判らないことを考えて頻繁に舞台裏を歩いているのである。いや、いけすかない学生ほど舞台裏へ誘い込むべきかも知れない。出来れば新国立劇場の舞台裏だ。

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