河童の劇場 ―アルマイトの栞 vol.17
「河童の劇場」である。何がって、それは「アルマイトの栞」のvol.16を見てください。学生が選んだのは芥川龍之介の『河童』だったのである。意外だったなあ。絶対に『銀河鉄道の夜』に向かうだろうと思っていたのに。まあ『銀河鉄道』は読者にかなりの想像力を要求するからね。その種の「力」があまり無い人にとっては『河童』の方が読みやすかったのかもしれない。それでともかく、『河童』を上演する空間を考えなければいけないわけだ。
とは云うものの、これはかなりの難題なのではないか。そもそも芥川の作品で舞台化されたものって聞いたことがない。映画では黒澤明の『羅生門』があるけれど、でもあれのモチーフは芥川の『薮の中』である。まあなんにせよ、芥川の作品は映像化には向いている。だが舞台となるといかがなものだろうか。なにせ『河童』だ。河童が出てくるんですよ、しかも大勢。
授業の課題内容としては「空間計画」なんだから、そんなに河童そのものにアタマを悩ます必要は無いのだが、でもどうしても気になってしまうのだ。舞台に出てくる河童をどのように演じたら好いのか。まさか安直に着ぐるみってわけにもいくまい。なんだかミュータント・タートルズみたいになってしまって『河童』と云う作品のシリアスさはどこかへ行ってしまいそうである。
では生身の役者で表現するしかないのだろうか。この作品で描かれる河童の国は、価値観や習慣が人間の社会とは正反対である。河童たちは、自分たちの国に迷い込んだ一人の人間に対して「人間が衣服をまとうのは滑稽だ」と云う。つまり河童たちは何も着ていないのだ。素っ裸なんである。これをそのまま表現しても好いのでしょうか。舞踏の全身白塗りはあるけど、この場合、裸の役者の全身を緑に塗るべきなのか。しかも頭には皿が載ってる。そんな姿で舞台に出て来て、役者は云うのである。「我々の特色は我々自身の意識を超越するのを常としている」。観客が不安になりはしないか。警察を呼ばれそうである。裸で緑色で頭に皿を載せた大勢の役者たちが連行されていく光景は、それはそれで「劇的」だ。だけど、思いとどまった方がいい。
着ぐるみだろうが裸だろうが、どうも役者を使って演じようと考えるのがいけないのではないか。そうすると、人形劇と云う方法がある。これはかなり名案だと思うんですよ。学校帰りの電車の中で思いついたんですけどね。しかも、人形劇と云う方法を用いることから空間計画へとつないでいくことが可能になる。人形劇には幾つか種類があって、先ず「結城座」なんかでおなじみの「糸操り」がある。これは糸で吊った人形を操作するわけで、操る人は人形の上に位置していれば好い。人形を下から操る場合には「棒遣い」と「手遣い」の二通りがあって、文楽はこのジャンルである。どの方法も、人形を操る人が観客から隠れている場合もあれば、見えている場合もある。いずれの方法を採用するかで仮設劇場計画の手掛かりが手に入るってものじゃないか。
そうなんだよ、人形劇場にすれば解決するんだよ、この「河童の劇場」は。それに加えて、影絵の人形劇にしたって面白そうだ。バリ島の伝統芸能にあるような影絵人形劇とかね。人形を使えば、生身の役者には絶対出来ない動きも可能になる。「ひとみ座」の人形劇だと、驚く演技をする人形が「えっ!?」って云いながら両目を飛び出させたりする。生身の役者に向かって「そこでオマエは驚いてるんだから両目を飛び出させるんだよ」って要求する演出家は、たぶんいない。人形劇だからこそ可能になる演出は数多くあるし、そこから導かれる上演のための空間計画はいくらでも面白い劇場を展開できる。うん、「河童の劇場」はイケそうだ。
しかしなぜオレは学生が解決すべき課題を自分で考えているのか。まあいいか。万が一この文章を学生が「発見」したらボーナスポイントってことにしてやろう。学生思いの教員である。課題提出は来週の土曜だ。
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