やなぎだクン ―アルマイトの栞 vol.194
なにやら気になり続けて二ヶ月くらい前から繰り返し読んでいる本が、角川ソフィア文庫版の柳田国男『山の人生』で、とっくの以前に読んだとばかり思っていたのだけれど、自室の書棚を調べたら、それは柳田国男の『山民の生活』だったことが判明し、この表題の紛らわしさは『初めて使うAndroid設定ガイド』と『初心者のためのAndroid完全ガイド』の紛らわしさに似ている気がしてならず、まさか柳田国男は、読者が間違えて同じ本を二冊買ったりするのを目論んだのではあるまいな、とか疑念を抱きもするのであって、その点も含め、ちょっとイロイロ、本人を呼び出して問い詰めてみたい気分ではある。
『山の人生』は1926年に刊行され、その内容をトッテモ大雑把に説明するなら、「日本の先住民の子孫と考えられる人々が、人里から離れて山奥で暮らし、彼らの存在は近年でも目撃されていた」との主張であり、柳田国男は彼らを「山人(やまひと)」と呼び、古い文献や各地に残る話などから「山人」の存在を論証しようと試み、本書の第二章の話題は「山奥に暮らす少年が尾張瀬戸町で警察に保護された」と云うもので、事実なら重要な証人かもしれないのに、柳田は次のように記す。「すぐにも瀬戸へ出かけて、も少し前後の様子を尋ねたいと思ったが、何分にも暇がなかった」。卒論生が口走ったとしたら、その場で叱る。「バイトを休んだって行くべきだろ、柳田クン」。
この「尾張瀬戸町で保護された少年」の詳しい身の上について、柳田は「この話をしてくれた二宮徳君も知らなかったが」とまで記し、つまり友人からの又聞きなのであって、卒論生が質疑に対して「二宮クンが教えてくれたんですけど、二宮クンも詳しくは知らないそうです」とか答えてるみたいな状況でもあり、こんな卒論生を相手にした教員は「二宮クンに責任転嫁はダメでしょ、柳田クン」と返すしかないのだが、『山の人生』の全編にわたり、柳田クンは何度も友人の名を挙げ、「石黒忠篤君がかつて誰からか聴いて話されたのは、」などと又聞きの又聞きなうえに話の出所すら不明な内容さえ有り、名前の登場する友人は22人にも及び、柳田クンは友人に頼り過ぎか、Facebookのヘビーユーザーだ。
まあ、友人が多いのは構わないけれど、ウラで柳田クンは二宮クンから「オレ、もっと詳しく教えただろ!」などとキレられたりするトラブルを起こしていないか心配で、教員が手分けして柳田クンの友人全員から事情を訊いたほうが好いかもしれず、『山の人生』で持論を述べ終えた著者本人による締めくくりの最後の一文「これを笑うがごとき心なき人々は、少なくとも自分たちの同志者の中にはいない。」も相当に気になり、二宮クンなどに尋ねたら「柳田クンの記事に『いいね!』を押すと、柳田クンが学食の食券をくれるんですよ」だったりしないかと案じてしまい、やっぱりイロイロ、本人を呼び出して問い詰めてみたい気分ではある、逆ギレされそうで怖いけど。
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