30時間 ―アルマイトの栞 vol.189
いつか必ず読まねばなるまいと心に決めて幾星霜の作家や作品が多すぎて困るのだが、サッサと読まないと本の入手が困難になる場合だって珍しくはなく、久生十蘭『魔都』がイイ例で、河出文庫の久生十蘭のシリーズには不可解にも入っておらず、国書刊行会の『定本 久生十蘭全集 第1巻』などと云う高額な本に手を出さなければ『魔都』は読めないと知り、青空文庫も開いてはみたけれど、Macの画面で長編推理小説を読み切る自信は無く、挫折し、するとやはり『定本 久生十蘭全集 第1巻』なのだが、先ず西暦2014年に「久生十蘭ブーム到来」の自分がどうかしており、ちなみに昨年の夏は一人で「横溝正史ブーム到来」だった。
『魔都』が執筆されたのは1937年10月から1938年10月で、13ヶ月に及ぶ雑誌連載なのだが、物語として描かれる事件は1934年12月31日の夜から始まり、翌々日の1月2日の明け方に結末を迎えるので、およそ30時間ほどの間の出来事を、久生十蘭は13ヶ月に亘って書き続けていることになり、まともな行為ではないと思うのであって、どれほど克明に記した日記でも、たった30時間の出来事を『魔都』のように全41章もの長編に仕立てるのは困難だ。しかも『魔都』の舞台は東京なのだが、ほとんどの場面が日比谷公園から半径2キロくらいの狭い範囲で展開され、その範囲内で全41章にも及ぶ話題を提供できるような30時間を過ごすには、何をすれば好いのか。一人では無理だと思う。
それでかどうかは知らないが、『魔都』は登場人物が無闇に多い。その大勢が散らばって、あちらこちらで同時に事件が進展し、それぞれの登場人物が推理や憶測を巡らせて駆け回り、事態は二転三転し、読んでる自分のアタマは混乱するのだが、そんな物語を書いている久生十蘭のアタマは混乱しないのかと案じた矢先に、次のように記される。「かうなればもう作者の手に負へぬ。それによつてまたどんな波瀾が巻き起されるか知らぬが、しょせん成行に任すほかはないのであらう」。いきなり作者が責任を放棄してしまう意外すぎる展開の推理小説である。それでも物語は進むが、事態は収束しないどころか、新たな出来事が次々に加わって錯綜し、何度も「もう作者の手に負へぬ」と作者が嘆く始末だ。
ナントカ読了すると、「作者の手に負へぬ」が事実だったような気がしてならず、極めてリアルに描写される昭和初期の東京の風景に目を奪われて注意を怠ったのだが、物語の辻褄が合ってるのか、どうも怪しい。それで冒頭から読みなおすと、6章で登場するセッケン会社「鶴の子石鹸」が、再び登場する27章で「鶴の卵石鹸」と書かれていた。物語の辻褄とか云うレベルではなく、間違ってる。明らかに作者の手に負えていない印象を抱くが、読後に知るところでは、久生十蘭の執筆スタイルは口述筆記だそうで、すると彼は30時間の出来事を13ヶ月に亘って喋り続けたのだ。何かが憑依してないか。作者自身が作中で最も不審な「怪人物」である。辻褄など追究すると自分も命を狙われそうな気がする。
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