Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

大きな見落とし ―アルマイトの栞 vol.180

目からウロコが落ちたと云うか、愕然としたと云うか、まあ、ともかく「そうだったのか」と唖然とする他なかったのは、吉田戦車さんの『おかゆネコ 1 』の第13話である。喋るうえに、様々な粥を作っては飼い主たちに振る舞うネコが主人公なのだが、その第13話は「芋粥」だ。芥川龍之介の『芋粥』に描写される芋粥を作るわけで、詳細に記された『おかゆネコ』のレシピを見て、いまさらながら「そうだったのか」と、まるで宇宙の真理でも啓示された者のように慄然とした理由は、自分が芥川の『芋粥』を十代の頃から何度も読んだにもかかわらず、重要な事実を見落としていたからだ。芋粥には、米が入っていない。

「粥」とは、必ず米が主体なのだと思い込んでいたわけで、そもそも、食品売り場に並ぶレトルトの粥のラインナップであれ、全て米が主体のような気がし、広辞苑の「かゆ【粥】」の項目にも「水を多くして米を柔らかに炊いたもの。固粥と汁粥の総称。特に、汁粥。」と書いてあり、けれども、芥川の『芋粥』をあらためて開くと、「芋粥とは山の芋を切込んで、それを甘葛の汁で煮た、粥のことを言うのである。」と平安朝の食文化が説明され、この説明は吉田戦車さんも『おかゆネコ』で引用しているのだが、ともかく米はおろか、穀物らしきものが入っていないことは、芥川の作中の芋粥を作る場面を読めば更に明白で、「甘葛」を煎じた汁を入れた煮立つ湯へ、「山の芋」を薄く削り、投じるだけだ。

この事実に気付かぬまま、芥川の『芋粥』を映像化などしたら、時代考証として誤った作品が仕上がる。それは、たぶん、米が主体の粥の中に山芋が混ざったようなシロモノの注がれた椀のアップ映像だったりするに違いなく、少なくとも、自分が芥川の『芋粥』の映像化を請け負ったら、間違いなく、そのような映像を撮ったはずで、なにはともあれ、今の今まで、誰からも「今度さあ、芥川の『芋粥』を映像にしてくれないかなあ」などと頼まれなかったことにホッと胸を撫で下ろしつつ感謝するのだが、とは云え、『芋粥』ではなくても、過去に何かしら、時代考証としては誤ったモノを作ったような気がするのも事実で、他人から指摘されないのをイイことに、自分は素知らぬ顔で通している。

じつのところ、2012年8月にYouTubeで公開した映像『半村良の空想力』は、時代考証の観点から見た場合、マズイどころの騒ぎではなく、本来なら、映像中に引用した半村作品に従い、’70年代後半や’90年代初頭を意識した光景が現れなければならないのだが、誰の目にも、そこに現れるのは2011年11月以降の光景で、それは特に、自動車の型式に顕著であり、喩えて云うなら、「芥川龍之介の『芋粥』です」と称して、レトルトの白粥にサツマイモを浮かべた様子を撮影した映像と同じで、怠惰にもホドがあり、「’70年代後半の車なんて記憶に無い」とか開き直って許されるものではなく、今後も何か半村映像を撮ろうと企むなら、先ず自戒の念を込めて、極めて正確な時代考証に従い、芋粥を作ろう。

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