遭遇 ―アルマイトの栞 vol.170
何の気無しに国書刊行会のサイトを覗いたばっかりに、空飛ぶ円盤の本へ手を出してしまうのである。だしぬけに『何かが空を飛んでいる 』と云われたら、気になるじゃないか。しかも、表紙の中央下に、子どもの頃、本で見て真剣に怯えた「宇宙人」が立っていて、これも「接近遭遇」の一種だ。そして自分から近付き、本を入手し、急かされるように読み進むと、幼少期に何かの本で読んだ「UFO関連の話」が目白押しで、記憶の扉が次々と開いてしまい、こんな話題に関してばかり基礎教養のある自分をどうかと思う。それにしても、人を誘拐して円盤へ連れ込む宇宙人は、なぜ、どいつもこいつも「人のヘソに針を刺す」のか。
ちなみに、この本は決して「トンデモ本」の類ではない。著者は「UFO」や「宇宙人」に関して肯定も否定もせず、そこで追究されるテーマは、「なぜ人は、空飛ぶ謎の物体を見てしまうのか」「なぜ人は、身長1.5mくらいの者たちに遭遇したと主張するのか」であり、「その種の体験談」に共通の構造が在ることを指摘しつつ分析する考察は、刺激的だ。などと偉そうに書いたが、この本を入手した自分の一番の動機は、やはり表紙の中央下に立っている「宇宙人」で、「あ、コイツ、知ってる!」と、およそオトナとは思えない反応を示し、「この本、欲しい!」と、これもまたオトナとは思えない衝動に駆られたのだ。十代前半で空飛ぶ円盤とはサヨナラしたとばかりに思っていた自分が甘かった。
一昨昨年、Tetra Logic Studioで小説家の故・半村良さんの公式サイトや公式ツイッターの構築と運営を担当することになった時、集中的に半村さんの伝奇SFを読み、その多くが書かれた時代は、自分が空飛ぶ円盤などの話に魅了されていた年頃の時期と重なるので、初めて読む作品にもかかわらず、話題が「異星人」だとかに及ぶと、郷愁のようなものを覚えた。つまり、虚構であれ体験談であれ、「異星人」は、その言動において似たような連中ばかりなのだ。揃って彼等は、地球人のことを知ってるようで微妙に知らず、その「知らない」事柄も似ていて、異口同音に「遙か昔から地球人を観察していた」などと公言しながら、振る舞われたゼリーを食器ごと飲もうとする。観察の成果が全く見えない。
そもそも、「異星人との遭遇」には、ほぼ必ず「空飛ぶ何か」の目撃を伴うことも共通で、この点も、今となっては郷愁を誘う要素だ。そろそろ、もっと別のパターンの「遭遇」事例が現れても好いのじゃないかと思う。たとえば、「LINEで仲好くなった相手に会いに出掛けたら、身長1.5mほどの者たちが待ってた」とか「気付かぬうちに地球上に存在しないSNSに登録してた」とか。いや、先ず、異星人が必ず地球を目的地としている点からして、ヘンだ。遭遇した異星人が話し掛けてくるなら、「アルファ・ケンタウリ星って、どっちですか?。こっちが近道だって聞いたんですけど」のほうが自然である。それで返答に困っても、とりあえず三鷹の国立天文台へ案内すれば、美談にさえなってしまう。
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