待ち続けて ―アルマイトの栞 vol.167
決めた日程が当日に延期となり、あらためて関係者同士のスケジュールを調整して再決定となった日程が、その当日になって再び延期となり、そしてまた関係者同士のスケジュール調整が始まる。なんだか、もう永久に「その日」は訪れず、スケジュール調整と日程延期の連鎖する世界に閉じ込められたような気がして、そうだとすれば、極めてレベルの低い悪夢だと思う。レベルの高い悪夢は「ある朝、虫になってた」みたいな話で、それはカフカの『変身』だが、その『変身』が自宅の書棚に3冊も存在すると気付き、それもまた悪い夢のようではある。異なる邦訳を見付けては買ったらしいが、夢中遊行なみに自覚が無い。
スケジュール調整と日程延期の連鎖を生んだ原因は台風で、その台風が自分を何度も自宅軟禁にするから、書棚に3冊の『変身』を発見してしまうのであり、不意の足留めをされて予定が空白になるから、「一人で『変身』の読み比べ」などと云う不毛なことを始めるのだ。岩波文庫の山下肇訳を読み始めたら、虫になって途方に暮れる主人公グレゴールの思考が他人事とは思えなかった。「何はともあれ朝飯をたべよう、あとのことはすべてそれからだと考えた。なぜなら、わかりきったことだが、ベッドの中でくよくよ考えてみたところで、なにもまともな結論はえられやしないからだ」。そのとおりだ。虫になってしまった者ですら、この心境である。度重なる日程延期など些細なことじゃないか。
それで、何はともあれ珈琲を飲んだりして、あとのことを考えた。何度も日程延期になる作業とは、YouTubeで公開を始めた細田麻央さんの舞踏映像『galacta』シリーズの追加撮影で、短時間だけ屋外で撮影すれば済むのだが、暴風雨の中で決行するような危険を冒す必要はなく、そもそも、敢えて危険を冒してまで実行しなければいけないコトなど、世の中には滅多に存在しないものだ。じつは『galacta』に関しては、映像の編集作業も残っていて、これは自分が音を並べる作業をしないと着手できず、どうせ自宅軟禁ならMacで音作りを進めようかと思ったが、暴風雨による急な停電に出くわす確率もゼロではないと考えて断念し、こうなると「危険回避」を装った「怠ける口実」のような気もする。
そして行き着く先が『変身』の読み比べで、主人公の名は「グレゴール」と「グレーゴル」のどちらなのかと気に掛かり、それは「やまザき」なのか「やまサき」なのかと同種の事柄だろうか。虫になってもなお、出勤しようとする主人公が時計を見て寝坊に気付き、驚く叫びは、新潮文庫の高橋義孝訳では「これはいかん」で、岩波文庫の山下肇訳では「南無三!」、最も新しい白水uブックスの池内紀訳にいたっては「ウッヒャー!」だ。原著を見たい。と云うか、この一箇所のためだけに『変身』の各国語訳を探そうかと、阿呆な読書に耽っていたら、とっくに台風など消え去り、しかし撮影関係者の誰からも日程調整の連絡が来ない。今度は誰かが虫になってしまって延期じゃなかろうかと不安になる。
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