売りに行く ―アルマイトの栞 vol.146
自宅の本を少し処分しようと考え、資源ゴミでも好いのだが、ふと思い立ち、近所の新古書店に持ち込んでみた。買い取り価格に期待などしなかったが、大型の紙袋一つにギッチリと詰め込む冊数だ。売れた。売れたが、その帰りに煙草を一箱買って珈琲を飲んだら、売上金は無くなった。そんなものだ。『中原昌也 作業日誌2004→2007』に書かれた中原昌也さんの日常を、笑えない。「所持金が無い」と嘆いては大量のCDやレコードを売りに出掛け、その金で帰りにレコードを買ったりして、また所持金が無くなる。しかし、音楽を仕事にする中原昌也さんの行為と比べれば、自分は愚か者で、せめて売上金でガムテープでも買うべきである。
そう反省して一週間が過ぎ、今度は大型の紙袋二つ分の本を同じ店に持ち込んだ。買い取り価格がゼロ円だった。そんなものらしい。そもそも、自分は本の「処分」が目的なのだから、買い取り価格がゼロ円だろうと構いはしないのだが、中原昌也さんは「金策」を目的としてCDやレコードを売りに出掛けている。しかも、それは尋常では無いほど切実に差し迫った金銭的なピンチの中でのことだ。そのうえ、「昼過ぎて口座を調べるが1円の入金もない。月末入るはずだったのに、来月に回されたのだろう」である。そんな未入金を、かなり以前に自分も何度か経験したことがある。あれは心臓に好くない。そして門外漢のクセに、「貨幣とは何か?」などとATMの前で思索してしまう。
二度目に出掛けた新古書店で買い取り価格がゼロ円だと告げられた時、なぜか出し抜けに「20エレのリンネルは一着の上着と等価である」とか云う『資本論』の文章がアタマの中を横切ったが、もしかしてマルクスも古着屋の買い取りコーナーへ出掛けただけなんじゃないのか。「家に残ってたリンネルを売ったのにさ、その店で上着を買っちゃって、また所持金が無くなっちまった」と自己嫌悪に陥って帰宅したマルクスの書き綴った日記が、『資本論』の真相だったりするのではないか。もし、その古着屋の店員がマルクスに「買い取り価格はゼロですねえ」と告げたら、『資本論』は全く違う内容になったはずだ。いや、『資本論』をキチンと読んだことがないので、よく判らないが。
ともかく、「金策」が目的ならば、本よりはリンネルのほうが売れそうだが、その必要に迫られても自分は売るほどのリンネルなど持っていないので、やはり本の他にはCDくらいしか売るモノがなく、そうなると『中原昌也 作業日誌2004→2007』だけは絶対に手放してはいけない。膨大な作品タイトルの登場するこの本は、CDを売り捌く必要が本当に生じた際の参考書になる。唯一の注意点は、売上金でトーキング・ヘッズのアルバムを買うみたいな行為をマネしないことだ。それにしても、CDなどを売りに新宿のdisk unionやらをウロウロすると、そうも偶然に「久々に小山田圭吾さんなどに会い」なのか?。神保町のdisk unionでは、友人に貸して行方不明になったCDにすら遇わない。
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