Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

ウカツだった ―アルマイトの栞 vol.145

どこでも好いから住宅街を見渡せる場所はないかと探したら、観覧車を見付けた。周辺に高層の建物は無く、その地域で唯一ダントツの高さを誇っているのが、この観覧車らしいとなれば、乗るしかないじゃないか。休日の昼少し前の時間にデパートの屋上の観覧車へ乗るには、いったいどれほど並ぶのかと、飲食フロアのあちらこちらに並ぶ家族連ればかりの行列を横目に、観覧車の乗り場へ向かった。客が、自分しか居なかった。「運転休止」かと思ったら、観覧車は回っている。やはり、客は自分しか居ない。観覧車に一人で乗り、一周して降りても、他に客が居なかった。たった一人の乗降係の人に、友情を覚えそうになった。

住宅街の見渡せる高い場所を探した目的は、映像用のロケハンだ。『半村良の空想力』に味をしめ、またしても半村良さんの小説に映像をくっつけようと企み、原作には漠然と「郊外の新興住宅地」としか書かれていないので、どこの住宅街でも好いのだが、「線路が赤茶けた野を東西に区切っている」と付け加えられていて、するとイヤでも住宅街を俯瞰する空撮映像のようなシーンがアタマに浮かび、ヘリを飛ばす予算など無いとなれば、ひたすら高所の在る住宅街を探すしかなく、神奈川方面にフラフラ出掛けてみたら、自分の他に客の居ない観覧車で一周するハメになる。こんな間の抜けた状況を、「ロケハン」とか「取材」とか称して構わないものだろうか。半村さんは、どこで取材して描写したのか。

たいして深く考えずに小説を映像化しようと企てると、厄介な目に遭うような気がする。たぶん、それは原作の風景描写を忠実に再現しようと考えてしまった場合だ。例えば、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』では、事件現場の館が神奈川県に在る設定なのだが、その風景を「他奇のない北相模の風物である」と書いておきながら、丘の上から眺めた光景として、次のように書いてある。「ちょうどそれは、マクベスの所領クォーダーのあった ― 北部スコットランドそっくりだと云えよう」。どこの話だ、それは。取材場所を間違えてないか、虫太郎?。ともかく、撮影班はスコットランドに飛ばねばならず、そこで撮った映像を「相模ですよ」と主張させられる。客の居ない観覧車に一人で乗るほうがマシだ。

だが、客が自分一人の観覧車に乗ることは、その状況が目的だった場合、そう叶うものではない。意図的に実現するならば、事前に観覧車を貸し切りにしてもらう必要がある。「客が一人だけの観覧車」を不可欠なシーンとする映像を、どうしても撮らねばならない事態が、決して訪れないと云う保証は無い。そう考えると、自分はウカツだった。写真ではなく、動画を撮って来るべきだった。いざと云う時に、使える素材になったはずだ。もう一度、あの観覧車へ乗りに行くか。それならば、あらゆる演出の可能性を考慮してから出向くべきで、例えば、「客が一人になる度に観覧車が止まる」。自在に観覧車を操作できるスタッフが必須だ。乗降係の人と、やはり友情を結ぶ必要がある。

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