模写する気持ち ―アルマイトの栞 vol.140
少し以前のことだが、たまたま「広島県の三次市」と耳にする機会があって、自分は真っ先に「妖怪の聖地だ」と条件反射のように思い出し、「そこは『稲生物怪録(いのうもののけろく)』の現場だ」とか口走り、しかし、そんなことを騒ぎ立てる者は他に居ないわけで、国書刊行会が『稲生物怪録絵巻集成』を出版していると知っても、云い触らす相手さえ見付からず、とは云え、知ってしまうと気になるのは致し方ないことで、とどのつまりは『稲生物怪録絵巻集成』が自宅の書棚に仲間入りしてしまった。『稲生物怪録』の存在を教えてくれた荒俣宏さんの著作と、自分に「三次市」の話題を何度も聞かせた人々のせいである。
『稲生物怪録』の大まかな内容はWikipediaあたりでも判るので詳細は省くが、手っ取り早く説明するなら「一ヶ月間、連日に亘って妖怪に脅かされても動じなかった少年の体験談」で、それは江戸時代の中頃に現在の三次市で発生した「事件」の記録だ。その記録に絵を添えて「絵巻」としたものが幾つか在り、『稲生物怪録絵巻集成』は8種の絵巻が並置された構成である。どうやら、「親本」とした絵巻を、他の絵師たちが模写した結果、複数の絵巻が存在するらしいのだが、それらを見比べて思うのは、「模写する気はあるのか」と云うことだ。模写の全てではないが、よく見ると、部分的に投げやりな感じのする描画がある。「課題で提出しなきゃイケナイだけなんですよ」とか云う感じだ。
そうであれば、自分にも憶えがある。学校の課題だからイヤイヤ仕方なく模写した絵は多い。そんな場合、先ずアタマの中は「どうやって手を抜くか」で一杯になっている。たとえば、手本の絵が「木立の隙間から眺めた建物」だったりすると、生い茂る枝葉を勝手に繁殖させて建物の一部を隠したりした。そうかと思えば、手本よりも極端に陰影を強調して、やたらと墨ベタの塗り潰しにした。そして、その途中でインクが無くなったりする。ロクでもない絵が仕上がる。しかし、『稲生物怪録絵巻集成』には更に大胆な手抜き例がある。目玉と足を無数に持つ妖怪が描かれた場面の並ぶ中、一人の絵師は「普通に目が二つ」のワンタンみたいなモノを描いている。ちゃんと手本を見てるのかと叱りたい。
この大胆な手抜き絵師は、他の絵師たちが座敷の畳や襖を模様まで事細かに描く一方で、床を黄緑に塗り潰し、襖は描かずに余白を薄く塗るだけだ。やる気が全く感じられない。ただ、なぜか、この人だけが床の間の掛軸を描いている。表装の具合まで緻密な描画である。妖怪が主役の絵巻で、妖怪の描写は手を抜き、勝手に掛軸を付け足し、しかも克明に描く。掛軸を描きたいだけの人ではないのか。わかる気もする。学校の課題でイヤイヤ描いた建物の、その背景に巨大な赤い満月を勝手に描き足したことがある。クレーターも露わな満月を描きたかっただけだ。提出したら、もう叱ってすらもらえなかった。手抜き絵師も自分と同じことを云われたに違いない。「まあ、単位は出すけどね」。
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