PV ―アルマイトの栞 vol.137
音楽を売るために、楽曲に映像を加えた、いわゆる「PV」と呼ばれるものを最初に誰が作り始めたのか、詳しい事情は知らないのだが、少なくとも深夜のCDTVを観ている限り、演歌であろうとPVらしきものは存在し、それは当然のことのようになっているわけで、ふと素朴に考えたとき、誰が何を目論んで思い付いたのかと、どうも気になる。カウリスマキが監督した映画『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』に触発された誰かが作り始めたとか云う説が流布していたら、たぶん間違いなく「都市伝説」の類だ。ところで、「レニングラード」と入力すると、強制的に「サンクトペテルブルク」と修正変換したがるのを止めさせる方法はないのか。
それはともかく、「PV」である。考えてみればカラオケ店でも、選んだ曲は必ず映像と併せて演奏が流れ、けれどもそれらの映像は大抵の場合、PVではなく、カラオケ用に作られた映像であることが殆どで、どちらかと云えば「イメージ映像」と呼ぶべきものだが、これはこれで考えさせられるものがあり、膨大な曲数のラインナップに対して、ほぼ漏れなくイメージ映像が作られていることを思うと、かつて一度もその撮影現場に出くわしたことのないのが不思議である。音楽PVとカラオケ用イメージ映像の数を足せば、それだけでも世の中には相当数の映像が存在する筈で、行き場を失った映像素材すら途方もなく山積している可能性が高い。世界のどこかに、「映像素材の墓場」が在る。
PV用であろうとカラオケ用であろうと、音楽に付けるためだけに映像を撮れば、そのまま素材の墓場に埋められてしまうシーンも多いとは思うが、それも何やらモッタイナイ気がする。墓場から掘り起こして、音楽以外の何かにくっつけても好いのじゃないか。たとえば、小説。作家本人が自作を朗読し、その声と併せて映像が流れ、時折は作家本人の姿も映像に現れたりする、つまり「小説PV」だ。必ずしも作家本人による朗読でなくとも構わず、他の誰かが読んでも好いわけで、しかしその場合は俳優ではなく、作者本人を敬愛して止まない別の作家による朗読である。音楽と同じく、それを「カヴァー」と呼ぼう。具体例:小栗虫太郎の名作『黒死館殺人事件』を横溝正史がカヴァー!。
そうなると、一般読者の中にも「朗読したい欲求」が現れるのは当然で、それは娯楽目的の朗読用イメージ映像も必要だと云うことだ。安部公房『砂の女』は、鳥取砂丘の映像が延々と続くだけかも知れず、次に朗読する者がレムの『砂漠の惑星』を選ぶと、「ロケ地が同じだよ」とか露見する。そんなものだ。むしろ重要なのは、本を持参しなくても、映像に小説の本文が表示され、読むテンポをガイドして文字色の変わる機能だと思う。それで充分か。ゴーゴリの『狂人日記』を選択した者が、読み始めた途端に口走る。「あ、これ、魯迅の『狂人日記』じゃん」。色川武大の『狂人日記』もある。「作家で探す」「出だしで探す」の機能が必須だ。そんな面倒なものを誰が作るのか。小説はPVまでが無難だ。
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