向こう側に居る一人 ―アルマイトの栞 vol.136
二人の会話だけで物語の殆どが進む話について考えを巡らせていたら、ベケットの『ゴドーを待ちながら』を思い浮かべたのは仕方のないことだが、そこに行き交う言葉の目指す先は、いつ読んでも不明だ。「こりゃなんだい?」「柳かな」「葉っぱはどこだ?」「枯れちまったんだろう」とか云ううちに、「だが、こいつはどっちかっていったら灌木じゃないか?」「喬木だよ」「灌木だ」と云い合いが始まり、しかし真っ当な結論に至らぬまま話題は変わる。どうしたことかと思う。もし、この二人の会話を物陰で盗み聞いたら、なんだか関わり合いにならないほうが好いのじゃないかと云う気分になりそうで、自分ならコッソリと立ち去る。
逃げたくても捕まるのは、こちらにシッカリと話し掛けられてしまった場合だ。これは小説で出くわすことが多く、例えば夢野久作『死後の恋』である。それはこう始まる。「ハハハハハ。イヤ……失礼しました。さぞかしビックリなすったでしょう。ハハア。乞食かとお思いになった……アハアハアハ。イヤ大笑いです」。確かにさぞかしビックリするわけだが、この作品は最後までズッとこの調子で、一人が喋りっぱなしの全編セリフである。しかし、聴かされている誰かの応答の様子も察しが付き、それは駅で未知の人が誰かと携帯で喋っているのにも似ている。「え、盛岡の?。う~ん、パパは、味噌ダレ!」。他人の家庭の夕食が、冷麺だと知ってしまう。
少し以前に、二人の声優の掛け合いを収録する仕事を手伝った。二人が実際に掛け合う状況で録音するのが理想的ではあるが、それぞれのスケジュールが微妙に合わず、別録りである。一人が問う事柄に対して、もう一人が答える構成で、先に「問い」を収録し、自分はその声をヘッドフォンで聴いていた。後から「答え」を挿入するために間を空けて台本を読んでもらったせいもあるが、ヘッドフォンで聴く「問い」は、まるで「答えている相手」が存在するような錯覚を生む。「ダッシュボードの下側の部分?……つまり助手席側ってこと?……その右側?、左側?……ではシフトレバー側ですね?」。ドラマだと偽り、人を騙せる。ロクでもない考えだ。
それならば、戯曲であれ小説であれ、二人が会話をしている状況の片方だけを残して、適度な間を空けつつ誰か一人が声に出して読めば、同じような錯覚のドラマみたいなものが仕上がるのじゃないか。試しに、『ゴドーを待ちながら』の二人の掛け合いから、エストラゴンのセリフだけを並べてみる。「ほんとだ」「そのとおり」「それでも、やっぱり考える」「そうだ、反対を言い合おう」「そうかな?」。なんだ、これは。相方のヴラジーミルが何だと応答しているのかを全く推測出来ないばかりか、ともすれば、関わり合ってはいけない者の独り言である。だが、声の背後に騒々しい夕方のデパ地下の音を流すと、状況は一変する。夕食の相談をしているドラマではないかと思う。
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