コトバの使いみち ―アルマイトの栞 vol.135
連絡を寄こすたびに、こちらのことを電話相談室か何かと勘違いしているらしい知人が居る。「あのですね、歌舞伎役者とかの『襲名』って、英語で何て云うんですか?」。知らないよ。そもそも、英語圏の文化に存在しない事柄だとすれば、該当するコトバだって無い筈だ。とは云え、何の気無しに使っている日本語の、さもない表現ほど英語で何と云うのか知らないのも事実で、それはそれで知りたくもあり、講談社『これを英語で言えますか?』などと云う本が自宅の書棚に転がっているのは、そのせいである。けれども、この本の第1章に例示されている「逮捕令状です」「黙秘権があります」は、どんな読者を想定した結果なのか。この本で勉強してまで、英語圏で何をしでかす気だ。
たとえば、日本から買って行った和菓子の饅頭を、違法な何かと間違われて拘束された場合に使える表現かと思ったが、黙秘することはないだろう。説明すれば済むことだ。昭和初期に和訳されたロシア小説を読んでいたら、「饅頭」と書いた傍らに「ピロシキ」とルビがあった。ピロシキは饅頭なのかと思いこそすれ、そこに翻訳者の「ギリギリの決断」を感じた。何が「ギリギリ」なのかはよく判らないが。ともかく、ロシアであれば「ピロシキ」と主張すれば好い。しかし、何でも訳せば好いわけではないと感じたのは、『シャーロック・ホームズ』の古い邦訳を読んでいたときだ。ホームズが地図を指さして得意げに云う。「ここには『赤牛旅館』があるが」。どこの地図だ。その捜査資料は怪しいと思う。
英米SFを数多く翻訳した浅倉久志さんの和訳文は、逆の意味で気になることが多い。「あんぽんたん」とか書いてあるのだ。元の英文には、何と書かれているのか。「べらぼうめ」とも書いてあった。この場合、『これを英語で言えますか?』と云うより、『これが英語で書いてありました』になるわけで、とにかくどうにも気になって仕方が無いのである。その元の英文を知りたいと云う、ただそれだけのために原著を探し回り、もし三省堂あたりで見付けたならば立ち読みで済ませたものを、探している本に限って在庫が無く、ネット書店で買うハメになった。ネット上での「中身を見る」は13ページ分だけで、しかも2ページは表紙と裏表紙、5ページが書誌情報では、「買え」と強要されたに等しい。
届いた原著を開き、キチンと読めば英語の学習になるとは思うのだが、浅倉訳で気になった箇所だけを探して確認した。「あんぽんたん」も「べらぼうめ」も、正体は判った。他には、「とんちんかん」「人でなし」「縁起でもないが」「すっとこどっこい」「たわごと」「できそこない」「ピンぼけ」「まぬけづら」「えらぶつ」「ドアホだ」「ノータリンめ」「エテ公どもが」「とんちきども」「どつぼにはまった」「つべこべいわずに」「鼻つまみ」「あばらかべっそん」「もうたいがいにしてくれ!」である。こうして浅倉訳と原著を交互に眺め続け、行儀の悪い英語表現ばかりを山のように憶えつつある自分だが、それで英語圏で何をしでかす気だ。
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