喋りを記録したならば ―アルマイトの栞 vol.129
漠然と「記録」の名目で撮った気もする映像を、キチンとまとめたいと云う話が出た。「記録」と称して撮影された映像は、えてして誰も視ない。写真以上に、誰も視ない。だから、この話がデザイナーのKさんや、撮影してくれた映像作家の大津伴絵さんから出たことは嬉しい。それは某氏のインタビューや対談映像で、つまり「喋り」だ。それを面白く残す手法を三人で話していたら、平凡社の東洋文庫シリーズにある『唾玉集(だぎょくしゅう)』を思い出した。明治30年頃に、様々な職業の古老に取材した話を、口調もそのままに文字にしている。老刑事が語る。「それァ泥棒にも、一種の病気で他人の物が只何となく欲しくッて盗人をする奴もある」。奇書に相違ない。
むしろ、東洋文庫は奇書ばかりだ。マルコ・ポーロ『東方見聞録』とか、奇書でなくて何なのか。それはともかく『唾玉集』だが、VTRもテレコも無い100年以上前に、人の喋りを口調も丸写しで文字に残そうと企むことが、蛮勇である。しかも、取材対象は一般の漁師や芸妓、刑事などだ。そして全員が古老で、明治30年に古老と云うことは、その若手現役時代に触れた途端、話は驚く展開をする。老刑事が振り返る。「昔ャ其の、南北に奉行があッて」。若手時代が江戸時代だ。「花川戸の政吉」は優秀な岡っ引きだった。誰だ、そいつは。「30年前は江戸」で、彼らは口を揃えて云う。「御維新の前は良かった」。2012年の大人が「’80年代は素敵だった」とか云うような対象が「徳川様」になる。
喋りの記録と云えば学生の頃、「テープ起こし」作業を頻繁に頼まれた時期があった。インタビューや座談会の録音を聴いて文字に起こす作業だが、その作業の度に「最初に起こした完全生原稿が最も面白い」と思った。しかし、掲載原稿の文字数制限や編集方針に従って、最終的には随分と原稿を削らなければいけない。先ず削る対象となるのは「爆弾発言」の類で、それは文字にした自分からすると最も面白い箇所だが、喋った本人にすれば最も削って欲しい箇所ともなる。だが、ある時、爆弾発言と思しき箇所を削除すべきかと、喋った本人に原稿を見せたら、その人は爆弾発言の最後に書き足した。「(笑)」。大抵の危ない発言は、最後に「(笑)」を付ければ偽装も可能だと、その悪い人に学んだ。
大津さんたちと企てる「喋り映像のまとめ」も、この手法でいくなら「ラフトラック」でも入れるべきだろうか。昔の米国ドラマによくあった、「観客の笑い声」を編集で入れるアレだ。だが、『唾玉集』に「(笑)」は無い。ホントに生のままなのではないか。もし、どこまでも「生」であることが『唾玉集』の醍醐味になっているのであれば、この「喋り映像のまとめ」も、それを目指すべきだ。そして、技術の有無など知ったことではない蛮勇も見習おう。たとえば、5.1サラウンドにして臨場感を高める。そんなことでは甘い。どうにかして3D映像にする。100年後の視聴者でも、それで驚くだろうか。映像中の某氏が視聴者の質問にも答える。蛮勇と云うか、それはどうすればいいのでしょうか。
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