Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

届けて回る ―アルマイトの栞 vol.127

どうにかまとめた半村良さん関連の映像を、協力してくれた方々に渡して回っている。全員に手渡しするのはどうにも難しく、申し訳無いです。「手渡し」を口実に遠方へ出掛けたい気持ちもあるものの、出向けるのは近所までで、むしろ発送作業が多くなり、手紙を添えてディスクを梱包し、せっせと送っている。何かの納品のような雰囲気だが、納品作業にしては効率の悪い自分で、「まとめて発送」ができないらしい。どれだけ郵便局へ往復すれば気が済むのか。自分は「郵便局ファン」なのか。自ら配達に回りたい欲求の現れとも思うが、自分は「郵便配達夫シュヴァル」のようになる恐れもある。「配達中に小石拾いに熱中し、小石で宮殿を建て始める」。それはマズイと思う。

郵便局員と云う仕事に憧れる気持ちは、たしかにある。受付窓口の「多様なスタンプ類を選んではペタペタ押す人」や、バイクや自転車で「細い路地を小刻みに走り回って配る人」、車でポストを回って「大きな袋にガサガサと郵便物を掻き集める人」のいずれにも、理由は定かでは無いが、魅惑される。その中でも「バイクで小刻みに走り回って配る人」に最も憧れているらしく、数年前まで自分が愛車にしていた原付は真っ赤なカブだった。幾つもの車体色があるのに、「赤」を選んで買った理由は、云うまでもない。そのカブを乗り回していた頃、誰かから「お遣い」を頼まれるのが嬉しく、しかも遠回りや寄り道をし、戻り道のほうが荷物は増えたりした。「配達中に小石拾いに熱中」と大差が無い。

今日も、一組のディスクを梱包して郵便局へ出掛けたが、梱包しながら「梱包作業も好きなのではないか」と思った。過去にも思い当たるフシがあり、舞台の美術や個展のために作ったモノを、車で運べるよう搬入前日に一人で梱包していたとき、自分は嬉々としていた。塗装した40㎝×90㎝の板25枚を、塗装面が傷まないよう旨く輸送するために梱包していた自分は、モノの制作時よりも遙かに嬉々としていた。「梱包が目的の制作」だったのではないか。搬入車も自分で運転し、それもまた悦楽だった事実を考えれば、「梱包と搬送が目的の制作」だ。中身は何でも好いんじゃないのか。いっそのこと『Σ(梱包)=(配送)』などと題した「パフォーマンスアート」とでも云い張るのはどうでしょうか。

しかし、半村映像のディスクを梱包して発送したり届け回る作業が、「アート」になどなってはいけない。この制作に協力してくれた人たちの手許に、確実に届けることが目的だ。そうなると、作業は淡々と事務的に進め、アタマの中に「悦楽」などと云う煩悩が沸き立つのを抑えるべきで、ましてや配達の道すがら、小石を拾うことに熱中し始めたり、その小石で宮殿を建てることを夢見たりするのは論外である。そもそも「納品」とか「配達」と呼ぶから、いろんな意味で寄り道するのではないか。では、「奉納」と呼ぶか。粛々と神事のように進めれば、煩悩など現れる余地は無い筈だが、関係の無い人々へも半村映像を配り歩いて「勧進行脚」などと云い出し、「お布施を」とか乞い始めてもマズイと思う。

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