Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

散らかる人たち ―アルマイトの栞 vol.123

昨年の11月、京王線に乗っていたときのことだ。通り過ぎる駅のホームの光景と一緒に、つげ義春さんの巨大な絵が視野を横切った。一瞬の出来事に、「なんだ、今のは」と思わず口走ったら、友人も「つげ義春、『ねじ式』が、絵だった」と、意味の解らないコトバを発した。『ねじ式』の冒頭の絵が、B0版らしき大きさで貼ってあったのだ。気にならないわけがなく、あとで調べたら、それは府中市美術館で開催された『石子順造的世界』のポスターだと判明し、『ねじ式』の原画も展示されているとの触れ込みだった。会場で販売された図録の表紙は、京王線から垣間見たポスターと同じデザインで、その図録は美術出版社から一般書店にも並んだ。売れるに決まっている。

「石子順造」と云う人を、詳しく知っているわけではない。たぶん、赤瀬川原平さんなどのことを追いかけ回した中で名前を知ったような気がするが、「どうかしているコレクター」だと思っていた。あくまで勝手なイメージとして、みうらじゅんさんと通じるものを感じ、それはやはり「どうかしている人」である。『石子順造的世界』の図録を眺めて、思った。「この人は、やっぱり、どうかしている」。図録の副題は「美術発・マンガ経由・キッチュ行」で、そうでも書かなければ、当人の活動の説明は付くまい。この人が興味を抱く対象の範囲と云うか、散らかりようは尋常ではない。ただ、その膨大な散らかりようを目にしたとたん、その人の「在り方」がハッキリと見えるから、不思議だ。

おそらく、みうらじゅんさんなども当てはまるのだが、思うに、これは「散らかった人」である。「散らかった人」の個性は、「何が」「どのように」散らかっているかに現れる。昨年から、半村良さんの作品に因む場所へカメラを持って出掛けたり、半村さんに縁のある人々から話を伺ったりしているが、半村さんもまた「散らかった人」ではないかと思う。そもそも、住まいの所在が「散らかって」いて、いったい生涯に何回の引っ越しをしたのか、今以て自分のアタマの中で整理ができない。個々の作品の版元も、長年に亘り「散らかり」放題で、これも相変わらずアタマが混乱したままだ。けれども、ヘンに「整理を付けよう」と企むのが、先ず宜しくないのではないか。

「散らかった人」を読み解こうと思ったら、散らかったまま受け止めたほうが好い。半村作品に因む場所で撮った映像などを素材にして、「作家・半村良」のドキュメンタリー映像みたいなものが作れないかと画策してみたら、まるで辻褄など合わせられない素材の集まりに気付き、こちらがどう足掻いても「片付け」は無謀だと判り、「散らかしたまま」の状態で編集した。「散らかった人」のドキュメンタリーは、散らかるのである。もう少しだけ音の調整を試みたい状態の映像をチェックしながら、自分の住む室内も散らかっていることが気になった。他人が見たら「コイツは、折り込み広告のコレクターではないか」と思われそうだ。この事例は、古紙を回収日に出し損ない続けている怠惰にすぎない。

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