Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

「孤高」がリレーする ―アルマイトの栞 vol.124

かなり以前から気になっていたのは、創元ライブラリの巻末に掲載された『中井英夫全集』の自社広告である。そこには中井英夫の全集を刊行する旨を告知する文章や、作品紹介の文章があり、それじたい出版社の自社広告としては当然のことだ。どうにも気になったのは、その文章である。「彫心鏤骨の文体によって」。だしぬけに、難読だ。繰り返すが、これは出版社の広告文であって、中井英夫の書いた文章ではない。出版社の誰かが書いたのだと思うが、これを書いた人は「鏤」の字が好きなのか、全集の第4巻を紹介する文章には次のような記述がある。「鏤めた」。読めない。そもそも、「鏤」の字は何と読むのか。自社広告を装った漢字検定ではないかと思った。

読めないのであれば、さっさと漢和辞書を引けば好いものを、ものぐさな性格であるうえに、この自社広告を掲載している本が自分の寝床の枕元に積んであるものだから、読めないまま放り出しては忘れ、しばらくしてまた寝床の中でページを開いてしまい、読めない「鏤めた」の文字を眺めていた。夜中に、わざわざ寝床から抜け出してまで漢和辞書を引く気力など無いのである。深夜に漢和辞書などで調べ物をする行為は、ただでさえ悩ましい自分の不眠を悪化させかねない。しかし、読めない「鏤めた」の文字を眠れぬ寝床で何度も眺めることも、ともすれば不眠の温床になりはしないか。それでとうとう、漢和辞書を開いた。「鏤めた」。「ちりばめた」だ。予想すら出来なかった答えである。

ものぐさの程度が自分と同じくらいの人のために付け加えて書けば、「彫心鏤骨」は「ちょうしん・るこつ」だそうで、「心や骨にえりきざみつける意で、非常に苦心し骨折ること。詩文を作ることなどについていう。」とある。中井英夫の、どこか仙人めいた風貌にも当てはまる雰囲気のコトバだ。菊池寛のような風貌には似合わない気がする。そう云う問題だろうか。それにしても、「えりきざみつける」は、どんな「きざみつける」だ。半端ではない「きざみつけ」を勝手に想像するのだが、これはこれで辞書を引くべきで、しかし、ここでまた放り出してしまった。何にせよハッキリしたのは、「彫心鏤骨」に該当するような行為について、自分には覚えがないことである。自慢することではない。

『中井英夫全集』を紹介するこの自社広告文が、むしろ「彫心鏤骨」ではないかと思うわけで、「希い」に「ねがい」とルビが振ってあったりもする。中井英夫が「孤高の作家」と評されるのなら、これは「孤高の自社広告」である。なにせ、その自社広告の前のページに掲載されている他の創元ライブラリへの広告文には「チョベリバな」などと云うコトバすらあるのだ。この落差はなんだ。同一人物が書いたとすれば、心配な気持ちになる。そして数日前、『中井英夫全集』の第1巻『虚無への供物』を入手し、つまりは「孤高の自社広告」の餌食になった。手にした『虚無への供物』の1ページ目を開く。「―その人々に」。いきなり何を云い出したのか。「孤高」は、読む者に有無を云わせず突っ走る。

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