Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

「尺」と「終わり」 ―アルマイトの栞 vol.122

編集中の映像に、やはり曲を付けたいシーンが出て来てしまうわけで、自分でチマチマと音を並べ始めてしまった。気の向くまま音を並べているうちに、ふと思った。「この曲はどのようにして終わるのか」。自分で作り始めておきながら、無責任な疑問である。とりたてて何の計画も描かずに、ボンヤリと音を鳴らし始めた自分が悪い。まるで「即興歌」だ。「唄って」はいないけれど。となると、「即興演奏」とか「インプロヴィゼーション」などとカッコイイ呼び方をしたくなるが、やはり実態は「即興歌」であるらしく、『カメルーン・ピグミーの音楽』の収録曲を思い出した。どの曲も、なんとなく始まり、なんとなく終わる。「子守歌」は、子どもが寝付いたらエンディングなのだ。

『カメルーン・ピグミーの音楽』に収録されている「子守歌」は4分49秒だが、それはたまたま4分49秒で子どもが寝付いたのだと理解すべきで、「うちの子は、いつも4分49秒の尺で寝付くんですよ」と公言している親が居たら、考えものである。同じアルバムに収録されている「ミツバチがぶんぶん飛ぶ」と云う曲は7分47秒で、それはきっとミツバチの飛び交う場所に出くわした者がつい唄い始め、ミツバチの姿が見えなくなったら7分47秒が経過していたと云うようなことだろう。ところで、ミツバチの飛び交う中で7分47秒も唄っていて大丈夫なものなのか。唄うよりもむしろ、その場を離れた方が好くはないか。

唄っていた者がミツバチに刺されたかどうかはともかく、「ミツバチがぶんぶん飛ぶ」にせよ「子守歌」にせよ、歌の尺の決め方としては理にかなっている。もし曲の尺が先に決まっており、子どもが寝付いても尚、子守歌の尺が3分12秒残っていて、構わずそのまま唄い続けたら、せっかく寝た子を起こしかねない。コトによっては、眠りを妨げられた子が親に云う。「リフがちょっとクドいな」。どんな子守歌なのか。場の状況に応じて必要とされる曲ならば、その状況が過ぎ去った時点で「なんとなく」終わって構わないはずだ。「尺」は、なりゆきで決まって構わないのである。むしろ、「曲の尺」に妙な特権を与えると、事態は不条理なものになる。祭りが終わっても笛を吹き続ける者の振る舞いだ。

気の向くままに音を並べ始めてしまった自分だが、これは「好き勝手に鳴り続けて、好き勝手に終わる」わけにはいかない。その曲を必要とする映像のシーンの尺は、すでにハッキリ過ぎるほど決まっているのだ。その「場」を無視してはいけないわけで、しかし、気付けばその尺の半分くらいが過ぎても前奏のような音が続いている。マズイではないか。そのシーンが終わっても、まるでそれに気付かぬ様子で曲が続いてしまうようなことになれば、出来上がった映像を前にして「見方によってはヌーヴェルヴァーグの映画みたいでしょ」と無体な主張でもするほかない。しかし、いくらそんな主張を繰り出したところで、『カメルーン・ピグミーの音楽』の人々からすれば、それは「粗忽者の音楽」だと思う。

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