Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

混ぜて読むと危ない ―アルマイトの栞 vol.99

何冊かの本を併読することはアタマの混乱を招く原因だと知りながらも、つい同時に複数の本に手を出す自分が居る。半村良さん公式ツイッターに引用するフレーズを拾うために半村さんの伝奇SFばかり読んでいるから、併読するにせよ、アタマがゴチャ付かないように異なるジャンルの本を選んでいたつもりなのだが、いつの間にか三冊のSFを併読していた。半村さんの『邪神世界』を読み始めながら、今さらJ・G・バラードの古典『結晶世界』を読んでいた。そこでやめれば好いものを、ふと『宇宙飛行士オモン・ラー』を手に取った。ロシアの作家ヴィクトル・ペレーヴィンの書いた、当然のことながらロシアのSFである。表紙のデザインに惹かれたのがいけない。

日本のSFを読みながら、イギリスのSFとロシアのSFを読んでいるわけで、これではSF関係の仕事をしていると誤解されてもおかしくはないが、今のところ「仕事で読んでる」と主張して差し支えないのは半村作品だけである。なにせ半村さん公式ツイッターへ掲載するフレーズを探して付箋を貼りながら読んでいるのだ。傍から見れば、「あの人、付箋は必要経費なんだろうな」と思われそうな量の付箋を貼りながら半村作品を読むことが習慣化していて、付箋を忘れて出掛けると、不安になり、それは何かの病かも知れないと、そちらのほうが不安になる。いや、むしろ病の可能性があるのは、こんな作業を何カ月も続けているうちに、どうやら付箋を貼る行為じたいに快楽を覚えてしまっているらしいことである。

少し以前から薄々とその「病状」らしきものを自覚しつつあったのだけれど、『宇宙飛行士オモン・ラー』を読んでいる最中に「病」だとハッキリした気がする。無意識に、半村作品に対してするように付箋を貼りたい衝動に駆られたのだ。「天体になるということは、環状線をノンストップでまわりつづける囚人用車輌に乗って終身刑を受けるのにほぼ等しい」と書かれた箇所を読み、アタマが勝手に「このフレーズを採取しよう」と反応し、その直後に「あっ、これは半村作品ではなかった」と我に返ったのだが、それにもかかわらず、やはり無性に付箋を貼りたいのである。貼ったところでどうするのか、自分でも解らないが、ともかくこのフレーズに付箋を貼っておかなければいけないような気がしてならない。貼って誰かに迷惑を掛けるわけでもない。貼ってみた。なぜか安堵する。不可解である。

「付箋を貼りながら読み進める」と云う作業の中で、いつしかアタマが「何か気になったら付箋を貼れ」と身体に指令を出すようになってしまったらしい。その指令を実行することが苦痛であれば長続きはしないだろうが、快楽に置き換わればどんな不条理な作業であろうといつまでも続けて居られる。そう考えると、有人衛星に乗ることや有人探査船に乗って月を目指すような長く孤独な仕事も、その大部分はそう云うことなのではないか。「強靱な精神力」ではなく、狭い宇宙船の中で淡々と続けなければいけない何かが飛行士にとって快楽になってしまうのじゃないか。「無性に軌道修正計算がしたくなる」。適性検査合格である。それがたとえ「終身刑」でも、当人にとって快楽になれば任務は果たせる。

「半村良ツイッター計画に参加することは、環状線をノンストップでまわりつづける車輌に乗って付箋を貼り続けるのにほぼ等しい」のかも知れず、少なくとも自分にとってはそうなってしまったらしいことを『宇宙飛行士オモン・ラー』が教えてくれ、そこでもまた無性に付箋を貼りたい衝動に駆られ、付箋貼りが快楽に変わっていることにも気付く。SFを併読してもストーリーが混乱することは無いのだと油断していたら、こんな奇態な衝動が芽生えていたのだ。そして昨日、山田正紀さんの書き下ろし新作『バットランド』が掲載された本を買ってしまった。またSFだ。もしかすると、SF小説にただ付箋を貼りたいだけで本を買い始めてないか。立ち読みで付箋を取り出したら間違いなく重症だ。

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