Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

「同じ」と「別」の境界 ―アルマイトの栞 vol.88

今から一年と少しで没後10年となる作家の半村良さんに関わる仕事の最初は、半村良さんの公式サイト作成である。伝奇SFに限らず、多ジャンルに亘る作品を書いた半村さんは、作品形式も長編や中編、短編と多彩で、その作品数は極めて多い。公式サイトとなれば、その作品紹介も役割として担うわけで、と云うことは、やはり書籍の表紙も掲載したいと考えるのが人情である。つまり、表紙の写真が必要となり、映像作家で写真家でもあるOさんと一緒に著作権継承者のKさんのお宅へ伺い、作品リストをチェックしながらの撮影作業を11月上旬に開始した。限定出版の記念本まであるから、書籍の取り扱いには慎重を期すべきで、二人揃って白手袋をはめての作業となり、その光景はまるで警察の鑑識捜査である。ページの間に毛髪でも挟まっていたら採取すべきだろうか。

作品数が多いわけだから、刊行書籍の点数も多くなるのは当然である。そのうえで厄介なのは、同じ作品が単行本から文庫となり、その文庫も出版社を幾つか変えて現在に至っている場合だ。たとえば、代表作の一つ『石の血脈』ならば、最初は1971年に早川書房から単行本が出ている。それが'74年にハヤカワJA文庫になり、'75年には角川文庫に移る。そして'99年にハルキ文庫に移り、更に'07年に集英社文庫へと移ったので、『石の血脈』だけで5種類の書籍が存在することになる。撮影の事前にチェック用の作品リストを準備したが、そのデータに含まれていない出版社の本が書籍の山からやはり現れる。作品そのものは同じでも、単行本と文庫本、異なる出版社となれば「書誌情報」的には「別の本」として扱うことになるので、つまり、それ故にチェック作業は遅々としがちになる。極めて乱暴な云い方ではあるけれど、一般的な読者の立場であれば、「どれも一緒でしょ」と考えるのが普通だ。

同じ作家の同じ作品であることを承知しながらも、『石の血脈』を5種類全て手に入れたいと考えるのは「コレクター的嗜好」である。それは本の世界に限った話ではない。対象が何であれ、コレクター的嗜好を示す者は同じ考え方をする。以前、ある知人がBICのシャープペンにのめり込んだ。BICが作っていた100円のプラスチック製シャープペンを一本買ったら、その人は異なるボディ色も全て手に入れたい気分になってしまった。全部で何種類のボディ色があったのかは知らないが、知人は持っていない色を店頭で見付ける度に買ってしまうようになった。そのシャープペンは、100円にしては使い勝手が好かったので自分も持って居たのだが、ある時その知人に筆箱を覗き込まれ、「この色、どこで買ったの?」と怖い目で詰問され、「探してたんだっ」と告げられた。他人の筆箱の中まで探すなよ。数ヶ月後に、知人は怒っていた。「BICのヤツ、カラーバリエーションを変えやがった」。メーカーに非は無いと思う。

本を対象にしたコレクター的嗜好者も現に存在することを考えれば、半村良さんの作品撮影も手を抜いてはならない。そこで厄介なのは、あの『戦国自衛隊』だ。他の作品と同様、’75年のハヤカワ文庫を皮切りに、幾つかの出版社から文庫で出ているが、’79年に映画化された際の角川文庫あたりに「地雷」が埋まっている。映画化を記念して、表紙カバーのデザインを変更したものが存在するのだ。この場合、「書誌情報」的には同一の本である。しかし、コレクター的には全く別の本になる。「その表紙のやつ、持ってないんだ」などと彼らは口走る筈で、それに対して「内容は同じだよ」と答えようものならば、何か酷い目に遭わされそうな気がする。「同じ」と「別」の境界はこうして揺れ動く。では、ページの間に毛髪が挟まっていたなら「別の本」だろうか。「半村良さんの毛髪付き」。目の色を変える者が現れないとも限らない。鑑識班は自前で連れて来てください。

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