脇道にそれる ―アルマイトの栞 vol.89
作家の半村良さんの公式サイトを年内に開設する作業が進む一方で、「半村良の公式ツイッターも始めよう」と云う話が転がり出て、それは構わないのだが、既に故人の半村さんが呟き始めるのは考えものである。それで担当者を決め、半村作品から選び出したフレーズを「つぶやき」として投稿する準備を始めた。だから更に半村作品を読んでいかなければならないわけだが、ウッカリ脇道に入り込んでしまった。半村良さんが大好きだったと聞く国枝史郎に手を出した。伝奇幻想小説の『神州纐纈城(しんしゅうこうけつじょう)』。河出文庫で約450ページの、よりによって長編だ。「脇道」と知って踏み込んだ自分が悪い。
国枝史郎は1887年生まれで、伝奇小説や幻想小説を書き、『ドグラ・マグラ』を書いた夢野久作と同世代である。つまり、大正から昭和にまたがる時代に伝奇小説や幻想小説などを書いていたわけだから、夢野久作と同じく、「やはり」と云うべきか、死後随分と年月が経ってからの評価の方が大きい。この人の場合、戦後に三島由紀夫が絶賛したのをキッカケに脚光を浴びたらしいが、その時点で国枝史郎本人はとっくに故人である。「死後、再評価され」と書かれる典型みたいな人だ。「死後、再評価され」は、当の本人にしてみればどんな気分なのかと、いつも思う。「それ、勘違いだから」と、気分を害している場合があるのではないかと心配になったりする。
『神州纐纈城』については、その「文章のみごとさ」をよく耳にする。たしかに「流麗な文章」と云うか、講談でも聴いているような気分になる文体だが、唐突に作者本人が顔を出したりするので驚く。物語がどのように展開するのかと期待しながらページをめくると、「筆を進める前に説明しようと思う」などと作者本人が現れたりする。かと思えば、その「説明」の目的で武田信玄の若い頃の武勇伝について長々と書き進めている最中に、「ここから先のことは私の悪文などより非常な名文を残した先人が居る」みたいなことを云い出し、いきなり「以兵三百殿。後大軍数理。」と漢文の引用が延々始まる。漢文の引用が終わったところで、「是は驚くのが当然である。」と作者が戻って来る。驚いたのはこちらだ。
物語そのものも面白いけれど、1920年代にこんな小説を書いている国枝史郎本人のどうかしている様子にも気を取られてしまう作品だ。物語の主人公が気を失い、彼一人を乗せた丸木船が漂流していくのはともかく、その漂流する情景の描写だけが10ページ以上も続いたりするので、作者はきちんと物語に戻って来てくれるのだろうかと不安になる。漂流しているのは気絶したままの主人公なのか国枝史郎なのか、ことによると読んでいる自分も巻き添えを食っていやしないか。作者の没後30年近くも経って作品を「発見」した者たちが騒ぎ出すのも仕方のないことだ。
半村良さんの公式サイトやツイッターは、2012年の半村さん没後10年を視野に入れたプロジェクトの一環だが、このプロジェクトで半村良を「発見」してくれる人が現れれば嬉しい。いきなり『産霊山秘録(むすびのやまひろく)』のような伝奇SF長編に手を出すことがためらわれるのなら、先ずは『戦国自衛隊』あたりの中編から始めるのが好いと思う。いずれにせよ、物語の面白さのみならず、よく読むと、あからさまではないものの、半村良さん自身のホンネが噴き出したりする面白さは国枝史郎と同じである。「物語」は、それじたい脇道だらけの方が面白いのかも知れず、しかも読者を散々に引っ張り回した挙げ句、唐突に「未完」などと書いてあって人を唖然とさせたりもする。半村作品に、事実、それがあり、長い脇道の果てで読者は途方に暮れ、『神州纐纈城』に手を出す脇道へ踏み入ったりする。
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