向島の日常と電圧 ―アルマイトの栞 vol.87
鈴木一琥さんの町工場ダンス企画『すみだフリオコシ』の第一回収録が終わった。それにしても町工場はいきなり人を驚かせる。金型工場の、通りに面したガラスの引き戸を開けて一歩踏み込んだ目の前に、出し抜けに「200V」だ。何が飛び出すか知れたものではない。200Vは、スタンガンよりも遙かに低い電圧だが、とは云え無闇に身近にあれば確かに危険である。危険ではあるが、個人的にはこの種のサインやピクトグラムが大好きで、この「感電注意」のピクトは本でも見かけるが、これほど間近に見たのは初めてかも知れず、それはそれで嬉しい。「注意」以前に、「この人」はとっくに感電している。
『すみだフリオコシ』は当初、今年の11月にダンス公演として上演をするつもりだったが、一琥さん達と話し合いをする中で、先ずは短い映像作品として年内に仕上げ、年明け早々に上映会を開催する段取りとなった。そこから更に発展させて舞台作品を目指す流れである。町工場の音を録って作品用の音楽を作ることに変更はないけれど、収録した映像も作品の要素に組み込みたくなってしまったわけだ。来月まで、もう何度か収録に出掛ける予定で、その収録方法をハッキリさせるために一琥さん達と集まり、第一回目の収録内容をTetra Logic Studioで「鑑賞」した。これが、笑ってしまうほど面白いのである。
映像の冒頭、金型工場の創業者である高齢のIさんが一人黙々と金属のプレス作業を続ける光景が映る。撮影は映像作家のOさんだ。固定したカメラが、同じリズムで淡々とプレス作業をする70歳代のIさんを、別の工作機械越しにアップで捉え続ける。ただそれだけの映像が何分間も続くのに、観ていて誰も一向に飽きない。音楽制作担当のタニモト・タクが口走った。「これ、このまま何か物語が始まるシーンだよ」。確かにそうなのだ。観ている全員が同じように思っていたらしい。自分たちで収録してきたそのままの映像であることを充分に知りながら、次の瞬間に何かドラマが展開するのではないかと云う気分になるのだ。小津安二郎の映画みたいな感じだと、全員の意見が一致した。黙々とプレス作業を続けるIさんに、「お父さん、お茶、入りましたよ」と娘役の原節子がどこかから声を掛けるのではないかと、意味の解らない期待をしてしまう。
この印象が罠である。かつて多く作られたであろう町工場を舞台にした映像作品や、報道映像によく見かける「ステレオタイプな町工場」のイメージが、知らないうちにアタマに刷り込まれた結果の印象だ。町工場の日常が「のんびりと穏やかな日々」だったり、「経営こそ苦しいが明るい日々」だと思い込むのは、町工場の実態とズレて居る。こうしたステレオタイプなイメージは、町工場と縁のない者が勝手に夢見て編集した虚構に過ぎない。町工場の日常に「穏やかな明るさ」が無いなどとは云わない。現に、穏やかで明るい部分は有る。けれどもその一方で、「玄関先にいきなり200V」もまた、町工場の日常だ。平穏な素振りをしつつも、そこに平然と危ないモノが転がっている。自分のような者から見れば、それはある種の「不条理な平穏」の日常である。
町工場を偏見に囚われずに映像作品化する今回の試みの中で、最も警戒をしなければならないのは、「お父さん、お茶、入りましたよ」の罠である。ここで父が小声で「おう」と返事をして立ち上がったりすれば、罠に掛かったも同然だ。むしろ、「お父さん、お茶、入りましたよ」と声を掛けた娘が、うっかり200Vに触れてしまう可能性の潜むのが町工場の日常だ。うっかり200Vに触れ、盆を落とし、有田焼の湯呑みと菓子皿は床に当たって砕け、娘は気を失っている。父はそれを見て「ほら、おまえ、だから云わんこっちゃない」と小声で呟き、立ち上がって手早く電源を切る。娘を助け起こしながら父は更に呟く。「この割れた有田焼、絶縁体に使うか」。ただ事ではない日常が淡々と続く。ところで、一琥さんの踊りはどこで登場するのだ。身体表現の映像作品を創ろうとしていることを忘れそうになる。
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