大きくしたい気持ち ―アルマイトの栞 vol.71
あまりにも遅まきながらですが、今年もTetra Logic Studioを宜しくお願いします。そして年明けもまだ家政学院の授業があったりするので、ただでさえ寒い中を、さらに寒い八王子の方へと出掛けるのだけど、昨年から駅のホームに暖かい待合室が出来ている。他の駅でも見かけるようになったガラス張りの待合室だが、本気で「入ろう」と思うのは家政学院へ向かう時くらいで、それほど寒い場所なのだ。そんな「行きつけ」の待合室なのに、その外側のサインがまるで目に入っていなかった。ちょっと大き過ぎはしませんかね、この禁煙サインは。たぶんB全版のサイズだけど、これではかえって気付かれにくいのではないか。
サインを設置する人は、なぜか「大きくしたい」と思いがちだ。サインを設置してもハッキリした効果が無いと感じると「小さいからダメだったのだ」と人は思うようで、それは「じゃあ大きくしよう」に直結する。ある程度までは、サインを大きくすることで効果が高まることは事実だけれど、それにも限度がありはしないか。無闇に大きいサインは、むしろ人の視野から外れてしまう。正確に表現するなら「意識的な視野」から外れる。目には入っているけれど見えていない状況だ。サインを使って伝える内容にもよるけれど、「禁煙ですよ」と知らしめるために「B全版」はおそらく大き過ぎだと思う。どんな動機でこのような事態になったのだ。
サインに限らず、モノには何でも「ふさわしい大きさ」があると思うのだが、人の「大きくしたい気持ち」が起動するとき、「ふさわしさ」の冷静な検証はどこかへ行ってしまうのかもしれない。たとえば、「ピラミッド」。墓である。何を思ってあれほど巨大なことになってしまったのか。どこかの段階で、「大きくする」ことが本来の目的に取って代わった可能性がある。たぶん「大きくしたい気持ち」はこのように紛れ込むのだ。そして、紛れ込んだ程度のことなのに、時にはそれがキッカケで人に随分なモチベーションも与えてしまうらしい。「大きくする」ための技術開発なんかに着手してしまうわけで、その技術が実現すると、さらに連鎖的に他の「大きくする」技術開発に取り組み始める。こうなると、最初の目的が何だったのか、誰にも不明である。
そう考えると、大き過ぎると思われる禁煙サインは、単独に現れたものではない可能性も高い。だとすれば、このサイズの掲示用フレームが先に駅で大量発生したのではないか。云うまでもなく、このフレームは何か掲示物を入れなければ間の抜けたものになる。フレームが大量発生して気付く。「入れるものがない」。尾崎放哉の俳句みたいな気分である。そんな一抹の寂しさにも似た不安感が、誰かに大きな禁煙サインを作らせたのだ。このサインの、居心地の悪そうな切ない様子は、既にスタート地点を辿れない「大きくしたい気持ち」の連鎖の果てに現れた光景かも知れない。実際に、ここは駅のホームの果て辺りである。
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