コトバの身振り ―アルマイトの栞 vol.69
12月2日にリリースされた「□□□」のアルバム『everyday is a symphony』を買った。念のために書いておくと「□□□」は「くちろろ」と読みます。前評判が随分と高かったせいか、最初に入った二つの店では品切れで、結局は渋谷のHMVで手に入れた。最初からここへ来れば好かったのだ。そもそもネット購入するとかiTunes Storeで買うとか、出歩く必要はないんじゃないか。天気が好かったんだ。
事前に耳にしていたことは、「あちらこちらでサンプリングした音や声を素材」にしてコラージュし、そこにリズムとメロディ、歌が乗っているとの話だった。かなり興味津々となるが、実際に聴いて、笑った。予想以上にカッコ好かったからだ。日常音をサンプリングして音楽素材にすることは、とりたてて斬新なことではないけれど、どんな音をサンプリングするかでその人のセンスが明らかになる。中学校の卒業式の様子をサンプリングしようなどと、あまり人は考えない。なんでその音がカッコ好く音楽に構成出来てしまうのか。祝辞を述べている校長先生も、答辞を読んでいる卒業生代表も、本人の気付かぬうちにラップをしていたのだろうか。しっかりと四拍子のビートに乗っている。駅や電車のアナウンスから自動ドアの開閉音まで四拍子である。注意深く繰り返し聴くと、他にも多くのサンプリング音がある。そして、その全てが「いま」を鋭く示す音だ。
三浦康嗣さんの作詞にも「いま」が如実に描かれている。ソフトバンクの携帯電話CMに使われた曲『Re:Re:Re:』をはじめ、歌詞に現れている世界はハッキリと「いま」をすくい上げている。携帯メールのやりとりに極めてありがちなコトバの連なりは、「いま」の「コトバの身振り」そのものだ。こんな身振りのコトバで世界と向き合っているのは僕にしても例外ではなく、それは2009年時点で人々が眺めている世界の在りようそのままかもしれない。
そう考えると、一部の表現行為に見られる旧態依然としたコトバの身振りは何なのだろうか。ある種の演劇に僕が違和を覚えるのも明らかにこの点だ。コトバの身振りは必然的に実際の身体の在り方に影響する。声としてコトバを発していなくても、その人の内側にあるコトバの身振りは身体の所作として現れてしまう。「運命は最後の日までわからぬもの」などと口走りながら携帯電話で子犬の写真を撮る者は、おそらく居ない。
演劇に限らず、ある種の表現行為の中に今さらいかがなものかと思うコトバの身振りが当然のようにまかり通っていることは、どことなく鎖国的な様相である。その「今さら」なコトバの身振りから現れる身体もまた「今さら」であり、だとするならば、それらを包む空間の在り方も「今さら」に安住出来てしまう。素朴に「飽きないのか」と問いただしたくもなる。間違っても「世代の問題」とか、そう云うことではない筈で、安易な「世代論」にしてはいけないと思う。
「いま」の極めて自然なコトバの身振りの中から、いくらでもリリカルなものをすくい上げることが出来るし、そちらの方が遙かに強い批評性を備えて世界を眺める眼差しになる。「言葉の奥を確かめたくて今日もRe:Re:Re:」と書かれた『Re:Re:Re:』の歌詞は、そのまま西暦2009年現在の世界の姿である。
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