60字 ―アルマイトの栞 vol.67
あるところから原稿を頼まれて、劇団黒テントの『新装大回転玉手箱』テント劇場公演の話題を書いた。原稿を頼まれたのは10月始めで、締め切りは10月末だった。「4,800字から6,000字くらいでお願いします」とのことだ。「締め切りまで一ヶ月はある。余裕だ」と思ったのがいけなかった。原稿を頼まれて3日目くらいに少し書き始めた。さほど悩むでもなく書き始め、800字くらい書いたところで「これなら大丈夫。すぐ終わる」と思った。これがさらにいけなかったのだ。たかをくくってそこで原稿を放ったらかしにしてしまい、気がついたら10月の最終週になっていた。
カレンダーを見れば10月末は週末である。「つまり実質的な締め切りは週明け11月アタマか」と勝手に思い、そしてカレンダーをめくれば11月の最初は飛び石連休だ。「と云うことはホントの締め切りは連休明けなのではないか」とさらに勝手な解釈をしはじめた。ろくなものではない。数年前、大学の授業の曜日が12月25日にぶつかった時、その前の週に学生が云った。「来週、休講ですよね」。クリスマスだから休講に違いないと、勝手な解釈をした馬鹿者である。しかし、いまの自分の思考はこれと同じ馬鹿者の解釈である。「よくない考えだ」と思い直し、原稿を書いた。結果としては半分ほど「馬鹿者」なことになったが、6,000字弱の原稿に仕上げ、写真データなどと一緒にCDに焼いて自分で編集部まで原稿を届けに出掛けた。
それで少しホッとして、ある作家の短編小説を久しぶりに読みたい気分になり、自宅の書棚から一冊の新潮文庫を探し出した。近代日本文学の部類だが、本編を読む前になぜか巻末の、いわゆる「自社広告」が気になってそちらを読み始めてしまった。ネット書店ならば「この本を買った人はこんな本も買っています」となるようなラインナップの自社広告だ。どの本の紹介文も20字×3行の60字である。6,000字の原稿もそれなりに大変だが、60字もかなり難しいのではないか。
どんな文学的名作とされるものでも60字で紹介することは、考えようによっては無謀とも呼べる試みである。短歌を二つ並べても2字超過してしまう字数だ。誰か一人の担当者が書いているのだろうか。そうだとすれば語彙が豊富な人だ。それは60字の最後をどう締めくくるかに現れている。広告の最初は中河与一『天の夕顔』で、その紹介文の最後は「の姿を描く名著。」である。世の中で「文学的名作」と位置づけられている作品は、たいてい「の姿を描く名著」ではなかろうかなどと思ってしまったら、これ以降に並ぶ作品の紹介文はみな同じになってしまう。しかしこの「60字の人」はプロである。同じことを繰り返さないのである。
川端康成の『古都』の紹介文の最後はこうだ。「愛のさざ波を描く」。同じ「描く」を使っても文末のニュアンスに変化を出せることに気付く。しかしこれを繰り返しては「60字のプロ」ではない。「描く」だけではダメだ。島崎藤村の『破戒』は「鋭く描破する」である。かなり大変なことになっていやしないか。どこまで大変な表現になるのか期待するとウラを突かれる。森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』は「淡々と記す」である。そうきたか。「記す」もあったなと気付かされる。しかしこれで「描く」と「記す」の手は使ってしまった。「60字のプロ」はどうするか。川端康成の『舞姫』はこうなる。「舞踊一家の悲劇をえぐる」。意表を突かれた。こちらまでえぐられた気分になるが、「60字のプロ」はこんなことでは許してくれない。谷崎潤一郎『春琴抄』にいたっては、紹介文の最後にウラ技が登場する。「針で自分の両目を突く・・・・・・。」だ。文字の版組をよく眺めれば「・」が三つで1字に相当している。正確に60字である。
この「60字の人」は文章を多めに書いて削るタイプだろうか、それとも少し書いて膨らませるタイプだろうか。「いつも8字書いたら安心しちゃってね、で、気がつくと締め切りなんですよ」。これほどストイックな文筆稼業があるだろうか。6,000字の原稿くらいで騒いではいけないのだ。
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