Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

やさしい文章 ―アルマイトの栞 vol.66

なんでもいいから電車の中で読むものをと思って自宅の書棚から持って出たのがなぜか『日本霊異記』だった。いつどこで買ったのかは憶えていないが、「平凡社ライブラリー」の文庫になっている現代語訳である。「やさしい現代語訳」とか、そんなふれ込みに惹かれたのかどうかもはっきりしないけれど、学生の頃に新潮社の「日本古典集成」シリーズで校注付きを買ったのは確かなので、やっぱり「やさしい」に惑わされて現代語訳を買ったのだと思う。「やさしい現代語訳」を謳っている古典は随分と多いけれど、ここで使われている「やさしい」はクセ者かもしれない。「現代語訳だからやさしいよね」は嘘だと思う。

やさしい現代語訳であるはずの『日本霊異記』を開くと、目次からしてクビを傾げる。収録されている話が116篇あって、その表題が並んでいる。「自分で寺を造り、その寺の物を使い、牛となって使われた話」。何を云っているのでしょうか。前衛的な現代詩か、さもなくば何かでトランス状態になった者が書きそうな一文である。ビート文学の香りが漂う。他にも「僧が湯をわかす薪を他人に与え、牛になって使われ、不思議なことのあった話」、「子供の物を盗んで用い、牛となって使われ、不思議なことが現れた話」。牛になっている時点で既に充分不思議だとは思うのだが、さらになにか不思議な事が起こるらしいのである。そもそもなんでこうも無闇に牛になるのか。

それでともかく「自分で寺を造り、その寺の物を使い、牛となって使われた話」である。出だしで「大伴赤麻呂は武蔵国多摩郡」の人と紹介したかと思った途端に、赤麻呂は死んでしまい、当たり前のように「黒斑の子牛として生まれたが」と、たった冒頭の一行半で驚くばかりのスピーディーな展開をする。のっけの一行半で平然と展開して構わないようなことなのだろうか。考えてもみてほしい。友人と喫茶店で煙草を吹かしていると、おもむろに友人が口にする。「こないだ死んだアイツね、黒斑の牛に生まれたんだけどさ」。これにどう返答すれば好いのか。「ふうん、なんか、世界には13億頭の牛が居るらしいけどね」「じゃあこれで13億1頭だな」。退屈そうに聞いていた友人の恋人が云う。「闘牛士って、職業?」。これはこれで、なにか由々しき事態なのではないか。

しかし『日本霊異記』のほうはもっと別の、ただならぬ展開をする。この牛の「黒斑」の柄が文字になっていると云い出すのだ。牛の体の模様が次のように読めたのだ。「赤麻呂は勝手に自分の造った寺で思う存分に寺の物を借用したが、まだ返さないうちに死んだ。それをつぐなうために牛に生まれたのである」。どんな牛だ、それは。一方的に読者は悩まされる状況に陥るが、赤麻呂の親類と仲間はそれを見て「このことを後生のいましめとして残そう」と意見をまとめてしまい、広くこの話を喋って回った。牛はどんな気分なのか。ことによっては「いや、あの、そう云う問題じゃなくてですね」などと思いはしないか。牛の気持ちがひどく気に掛かるのだが、『霊異記』はそのことにまるで触れず、物語そのものはここで終わり、最後にいきなり筆者が顔を出してこう述べる。「むかしの人のことわざに「現在の甘露は未来の鉄丸である」といっているのは、このことをさす」。あっさりとそうまとめられても、申し訳無いことにそんな諺は知らない。読者としては一人茫然と立ち尽くすしかない。

繰り返すが、「現代語訳だからやさしいよね」は嘘だと思う。「嘘」と表現して語弊があるなら、「罠」である。この『日本霊異記』の現代語訳にせよ、そこで使われている文字や語句の一つ一つはたしかに「やさしい」もので、難解な熟語も言葉遣いも無い。けれども、個々の「やさしい」要素が集まって文になり、その文が集まって文章になっていくとき、必ずしも「やさしい」が保証され続けるわけではない。「やさしい」の本質は、文字や語句、言葉遣いとは全く別のところにある筈だ。友人があくび混じりに云う。「現在の甘露は未来の鉄丸」。なにかコトバを返すべきか聞き流すべきか、悩む。友人が急に続ける。「なんか、これ、ラップっぽいよね」。「あ、ちょっとタイニー・パンクスみたいな」。あっさりとまとまるわけはない。

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