サブカルチャー図書 ―アルマイトの栞 vol.65
朗読劇を控えた連休の初日に劇作家の宮沢章夫さんに会ったのだった。本を数冊お貸ししていたのを返して頂いたのである。1968年に澁澤龍彦の責任編集で刊行された雑誌『血と薔薇』の復刻版と『ユリイカ』や『太陽』などのバックナンバーで、いずれも特集テーマは「澁澤龍彦」。宮沢さんが早大で担当している授業「サブカルチャー論」の資料としてお貸ししてからたぶん二年が過ぎ、今度は僕の方で必要になったので返して頂いたのだが、なにせ宮沢章夫さんは図書館で借りた本を30年間返さなかった人である。一冊の漏れも無く返却されたのは奇跡ではないか。ちなみに、宮沢さんは30年後に図書館へ本を返しに行ったら、図書館が無くなっていたそうだ。こうした場合の本の扱いはどうなるのでしょうか。
『血と薔薇』などをお貸しした時点で、宮沢さんの「サブカルチャー論」は当然のごとく澁澤龍彦などにも触れていく雰囲気だったが、講義が進む中で全く異なる方向へと話題が発展して行ったらしい。宮沢さんは「授業の流れのどこに澁澤を置くか判らなくなってしまった」と漏らし、気付けば講義の話題は「ヤンキー文化」に至っていたようである。授業とはえてしてこのようなものである。春先に書いたシラバスの授業計画のことなど忘れてしまうのは僕も同じだ。
けれども、授業で澁澤龍彦を取り挙げると、学生は多量のサブカルチャー読書を迫られるのではないか。澁澤本人の著書はともかく、かなり絶版の関連本も多い筈である。そうなると図書館で借りる話になるわけだが、早大の図書館にマルキ・ド・サドの本が大量に置いてあるとは到底思えない。いや、むしろ大量に置いてあったらどうかしていると思う。そもそも、そのような状況だったからこそ宮沢さんに本を貸したのである。
こうして考えてみると、「サブカルチャー」とは一つの単語で括りきれない多様な拡がりを見せる一方で、「関連資料が図書館に少ない分野」と定義出来ないだろうか。文化として「マイナー」であると云うことは、資料の数の上でも「マイナー」なのではないかと、自分の書棚を見て思う。絶版の本がいやに多いのである。中高生の頃に買っていた「現代教養文庫」などは、版元の社会思想社じたいがいつのまにか消えてしまった。書棚に並んでいる現代教養文庫は『ドグラ・マグラ』をはじめとする夢野久作のシリーズで、作家と作品までもがあまりと云えばあまりにマイナーである。自分でもどうしたことかと思う。
「自分が好むものは流行らない」。みうらじゅんと同じである。否定はしませんけどね。それはつまり、「サブカルチャー」が数においてもマイナーであることの理由そのものだ。文化論的に難解な議論以前に、商品として売れないのである。数年前に廉価な文庫版となった『血と薔薇』が村上春樹の本のように売れたと云う話はついぞ耳にしない。果たして、蔵書数20万冊を誇る家政学院の図書館には置いてあるでしょうか。
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