『新装大回転玉手箱』と水路 ―アルマイトの栞 vol.60
うかつなことを口にしたり文字に書いたりするのはつくづく好くないものだと思った。テント劇場を建て込む日の天気を気にするようなことを書いたら、ろくでもないことになったわけだ。テントそのものが建つ日はまだどうにか天気の崩れはなかった。「テントさえ出来てしまえば、あとは屋内の作業」と高をくくったのが好くなかったのだ。雨を甘く見てはいけない。しかもかなりの土砂降りである。最初のうちは誰もが「少し雨水が下から入ってくるね」ぐらいの認識だったのだが、夕方になる頃にはテント劇場の中に立派な川が出現していた。たしかに「今回の作品は海の底のイメージ」と作者の瑞穂さんが再三に亘って口にしていたけれど、これではまるで『岸辺のアルバム』である。まさかこんなところで水害を体験するとは思わなかった。
「浸水してるからその水を外に出そう」と考えるのは人間としてきわめてまともなことで、あちらこちらで水掻きが始まる。そして「濡れてはいけないものを高い場所へ置こう」と云うのも当然の考えで、高床式住居はこうして生まれたのだなと今さらながらに納得したのだった。しかしいくら水を掻き出しても、雨は降り続いているのだからキリが無いわけで、水の流れはいくつもの小さな川筋を作り始めていた。水の流れが勢いを増すと、その流れで砂が削られて川筋は幅を広げていき、さらにはそれらが合流して大きな流れになる。「国分寺崖線はこうやって出来たのか」と、わけのわからないことを考えた。
そして水を掻き出し続ける人間は気付くのだ。「いっそ川幅を広げてしまえ」と。水路の発明である。今度はあちらこちらで砂堀りが始まる。しかしその道具は舞台の仕込みに使った木材の余りである。道具の発明が知恵に先んじることは無い。コルク栓が発明される前にコルク抜きを作ったヤツが居ただろうか。地面を掘る知恵が道具を要求するのである。そうしてどこかから園芸用の小さなスコップが出てきた。排水の効率を上げるために、誰かが灯油用の「あのポンプ」を買ってきた。買ってきた者は功労者として讃えられている。美しくカタチの整えられた水路を作る者も賞賛の的だ。「いい仕事だ」と皆が口々に云う。
日付も変わろうかと云う時間に真っ暗な公園でしゃがんで砂掘りに熱中する人々。そもそも彼らは何をしに来たのか。たしか舞台をやるんじゃなかったか。忘れてなければ好いがと、少し不安になる。そんなことを考えながら帰ろうとしたら、テントの外の暗がりに作られた小さな水路に足を取られて躓いた。ゲリラ戦用のトラップだったのならば見事な出来映えだ。いま黒テントの人々は確実に砂掘りの名手になりつつある。
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