Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

答えられないこともある ―アルマイトの栞 vol.21

大勢の人前で話をしなければならないことが頻繁にある。そりゃあ大学で教員などをやっていれば当然のことで、毎週のように学生を前にして喋っている。こう云う仕事をしてもう随分の時間が経つ。過去に大学受験予備校の英語講師をして飢えをしのいでいた時期もあるので、かれこれ10年は越えている。その間に何も変わらないなと思うのは、生徒や学生たちがまず滅多に質問をしてこないと云うことだ。特に、こちらから「質問は?」と尋ねたときほど彼等は無言である。まあ授業で見られる光景としては珍しいことではない。

しかし昨日の大学の授業で、授業も終わろうかと云う頃、一人の学生が手を挙げた。初めて見る光景かもしれない。その手の挙げ方も半端ではなく、ビシッと真っ直ぐに腕を伸ばし、質問する意欲満々な態度である。ビックリした。で、「なに?」とその学生に訊いた。「ユキセンセイは休みの日は何をしてるんですか?」。いきなり何を尋ねてきたのだ。どうだっていいじゃないか、そんなこと。いや、むしろそんなことを訊かれても困るのである。あまり明確に「休日」と云う観念を持たずに仕事をしているからだ。世の中には答えられることと答えられないことがある。

答えに困る質問を浴びせられたことが3年ほど前にもある。2004年の10月、外苑前にあったGallery ART SPACEと云う場所で個展をやった。『水脈抄』と云うタイトルで、20枚の「半平面・半立体」とでも云うような作品を一週間ばかり並べたのである。これはギャラリーのオーナーでもある写真家の篠原誠司さんが『ダイアローグ』と名付けて開催したシリーズ企画の一つとして持ちかけてくれた個展だった。そのテーマはまさに「ダイアローグ(対話)」で、そのテーマどおり個展期間中に作家と篠原さんがギャラリーで公開トークをすることになっていた。これが困ってしまったのである。

公開トークと云うことは聴衆が居るわけで、僕はひっそりとやりたかったのだが、何だか随分な人数がギャラリーに現れてしまった。いや、有り難いとは思っているんですよ。しかしどうも自分の作品についてコトバで何かを語るのは苦手なんである。苦手と云うよりも、語ることを拒絶していたような部分があったので、この公開トークは自分でもどうなることやらと思っていた。会場には友人、知人の顔も見える。そう云えば、なぜか学生も居たな。知らない人も居る。それで公開トークは始まってしまったわけだが、どうも司会の篠原さんが思い描いた対話の流れから僕が逸脱してしまう雰囲気で、しかも録音などされているので余計に緊張したのだった。一つ一つの作品に関することや過去の僕の個展や舞台作品にまで話題が及んで質問は続くのだが、そうすると尚いけない。その時その時で全く違う気分で作品を創っているわけだから、更に答えに一貫性が無くなっていく。ともすれば矛盾もする。もうメタメタである。

司会進行に困ってきたのか、途中で篠原さんが「会場から何かご質問は?」と振った。そしてこう云う時に限って人は手を挙げるのである。ある人が一つの作品を指して何か感想めいたことを云った。そして最後に「どうなんでしょうか?」と加えた。これが一番困ってしまう質問である。そもそもこれは質問なのだろうか。ほとんどが本人の感想である。その最後に「どうなんでしょうか?」と問われても、「あなたがそう感じたのならそれで好いのではないか」くらいの答えしか出ない。まあ自分の作品に対して意外な感想を云われるのは面白いのだけどね。しかしそう云った感想めいた質問の中に「コックリさんをやって出来たような絵だと思うのですが」と云うのがあって、これはもう笑うしかなかった。妙な作品を並べた自分も悪いが、少なくとも制作過程でコックリさんをやった覚えはない。

篠原さんには迷惑を掛けてしまったかも知れないが、ともかくこんな有様で公開トークは終わったのである。この時に改めて思ったのは、美術家と云う立場に自分が置かれた時、自分の作品について明確な論理で語ることが出来なければならないのかと云うことである。実のところ、これは10代の頃からよく考えていたことである。完成した作品に対して、評論家と呼ばれる人が明確に論理的な分析をすることはある。しかしその行為を作家本人に求めるのは何か無理があるように感じるのだ。作品に対して後から他人が論理付けをすることは可能かもしれないが、作家が制作をする前の段階で明確な論理を持ち、そこから作品が生まれると云うのは錯覚なのではないかと思うのである。どちらかと云えば、得体の知れない制作衝動に駆られて何かを創っているわけで、理屈では創っていない。少なくとも僕の場合はそうである。強いて云えば、得体の知れない衝動の「答え」が作品そのものなのであって、それ以上でも以下でもない。だが、質問をする人にとって、これは随分とぶっきらぼうで、期待を裏切る答えに聞こえるだろう。誠実に答えるほど、愛想のない作家になってしまうので困るのだ。

何か別の態度で質問に接するべきなのかと悩みつつも思うわけである。人は答えられることには質問をせず、答えられないことには質問をする。

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