Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

作業の手前で ―アルマイトの栞 vol.156

物事を先延ばしする口実は、不思議なほど次々と思い付けるもので、「つい横溝正史の『八つ墓村』を読み耽ってしまい」とかが一例である。理不尽である。理不尽だが、事実なのだから仕方が無い。つい、読み耽ってしまったのだ、『八つ墓村』を。すると当然のように次の口実が「市川崑監督、豊川悦司主演の映画『八つ墓村』を二泊三日でレンタルしてしまい、何せ二泊三日なら旧作100円だったし、だから急いで観ないといけなくて」になり、そして「原作と映画で異なる箇所の確認をしたい、何せ原作を読み耽った直後に映画を観たのだから」となって再び本を開き、やらなければいけない作業は何も進まない。

やらなければいけない作業は、映像家の大津伴絵さんと一緒に編集中の映像へ加える効果音みたいな音の制作で、そのために先ず、20年も型落ちしている旧いシンセサイザーを、どうにかしてMacに接続できないかと思い、もしや旧いシンセと旧い周辺機材に接続しっぱなしのケーブル類を別の新たな機材へ接続しなおせば、最終的にMacまで辿り着けるのではないかと考え、すると、旧い機材同士を結ぶケーブルが、どこからどこへ向かっているのか事前に確認したいわけだが、自分の記憶は曖昧で、ケーブルを辿っていくしかなく、無駄に長いケーブルばかりを使った過去の自分を呪いたくなる。たった20センチ程度の距離を5mのケーブルばかりで接続したら、ワケが判らなくなって当然じゃないか。

そして気付くと、寝転んで『八つ墓村』を読み耽っていた。何の偶然か、金田一耕助たち三人も長い綱を辿って迷路のような鍾乳洞を探索し始め、他人事ではない。奥へ進むと無闇に枝分かれする鍾乳洞で迷わないよう、二本の綱を準備し、一人が一本の綱の端を持って留まり、二人が綱の反対端を持って進み、また枝分かれになると、二人目が二本目の綱の端を持ち、その反対端を金田一が持って先へ進み、目的地を探す。目的地を発見した金田一が綱を引いて合図するが、その後の描写には驚く。「私たちは耕助の綱をつたって枝洞窟へ入っていった。すすむこと約三百メートル」。準備してきたのは300mもある綱だ。しかも二本だ。鍾乳洞の途中までの、綱を使う以前の三人の身軽さは、どうしたことか。

舞台などの作業用に、8ミリ径の綿ロープを10m単位で所有してるが、これが300mなら重量は約9kgになり、それが二本で18kgとなり、グルグル巻いた一本は直径が約40センチで厚みが約20センチの束になる。そんなシロモノをいきなり鍾乳洞の中で取り出し、「金田一耕助は一束のほうを左腕に通すと、あとの一束をといてその一端を警部に握らせ」である。繰り返すが、鍾乳洞の途中までの、綱を使う以前の三人の身軽さは、どうしたことか。この場面が映画では描かれないので、世に云う「映像化不可能」とはコレかと考えた矢先に、「その綱が音響ケーブルだったら重さはどれくらいかなあ」などと電卓で計算して物思いに耽り出す。1m足らずのシンセとMacの間に先ず接続すべきは自分自身である。

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