Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

読了できない場合 ―アルマイトの栞 vol.113

河出書房から刊行された文藝別冊『追悼 小松左京』は、執筆陣が驚くほど豪華だ。つい買ってしまうのは仕方が無いが、そもそも自分はそれほど小松左京さんの作品を読んでいない。むしろ、『日本沈没』を読み始めては途中で挫折した経験が十代の頃に幾度もある。しかも、なぜか必ず上下二巻の上巻まで読んで挫折するのだ。だから、『日本沈没』の上巻のラストシーンだけは無闇にハッキリと記憶している。何の自慢にもなりはしない。さいとう・たかをさんが劇画化した『日本沈没』は全三巻だったが、これですら二巻あたりで挫折した。原作の上巻ラストと同じ箇所だった。なにか、してやられたような気分になったが、つまり自分はいまだにベストセラー『日本沈没』の結末を知らないのである。

何度も読み始めては途中で挫折する本が誰にでもあるのではないかと思うわけで、最近になって気付いたのは、なぜか自分の友人にはマルクスの『資本論』を途中で放り出したと告白する者が多いことだ。『資本論』の知名度ゆえに、学校の図書館あたりでウッカリと手を出し、挫折するらしい。自分も同じである。そして奇妙なことに、友人にせよ自分にせよ、『資本論』については「20エレのリンネルは一着の上着と同じ価値量を持っている」と云う文言しか憶えておらず、どうやら全員が『資本論』の第一部の第一篇の第一章の第一節の、それも途中までしか読んでいないのだ。文庫で十冊近くになるうちの、最初の最初じゃないか。「挫折」と云うのもおこがましく、「読んでない」に等しい。

そう考えると、『日本沈没』は「半分までは何度も読んだ」と断言できるのだが、そんなことをキッパリと断言するくらいなら、結末まで読み通したらどうなのか。そんな自分が、パロディ作品の『日本ふるさと沈没』はシッカリと読んだ。徳間書店刊行の漫画である。しかもそれは、総ページ約220の中に21人もの漫画家が『日本沈没』のパロディ作品を寄せた本で、一作品のページ数はたかが知れている。唐沢なをきさんの『登別沈没』などは4ページで完結だ。とり・みきさんはページ数の多いほうだが、それでも12ページで完結である。挫折のしようがない。それどころか、何度も繰り返し読んでしまい、『日本沈没』を読了できない自分がこんなことで好いのかと思う。

『追悼 小松左京』をキッカケに、あらためて『日本沈没』読破を試みようかと考えたのだが、自宅の書棚に本が見当たらない。本の山を漁って出て来たのは、さいとう・たかをさんの劇画版『日本沈没』で、しかし、これも一巻だけが現れ、残りが行方不明だ。どうにも自分には縁の薄い作品なのだろうか。いっそのこと、自分の中で「『日本沈没』は未完の作品だった」と云うことにしてしまうのはどうか。そうすれば、かつて挫折した本も全てそれで片付くと云うものだ。「読者が作品を未完にする」。これは「テクスト解釈学の斬新な手法」なのではないかと、意味の判らないことを思い付いたが、そのまま作者本人と対談を試みようなどと目論むのは考えものである。

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