Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

向島の難易度 ―アルマイトの栞 vol.85

町工場 向島界隈の町工場をウロウロ歩いた。鈴木一琥さんの町工場ダンス企画『すみだフリオコシ』の「ロケハン」みたいなもので、一琥さん達と一緒に幾つかの町工場に御挨拶をしたわけだが、最初に訪れた金型製作所で目が丸くなってしまった。入り口の上部に突き出た庇の先端、つまり「鼻隠し」に「水切り」の段差があるのはともかく、そこに平然と屋号が大書されている。このレタリングは難易度が高いですよ。当然、手描きである。文字が段差の部分で途切れることなく、直角に折れ曲がって連続している。几帳面である。向島の町工場地帯に足を踏み入れるやいなや、いきなり高度な技術の職人集団から「甘く見るなよ」と啖呵を切られた思いだ。

大学に入った春、そこは建築学科だったのだが、4月の第一回目の演習課題は10センチ角のサイズで「永」の字を明朝体でレタリングしろと云うものだった。一回り大きなサイズの見本プリントだけを渡され、トレーシングペーパーに10センチ角の枠線と細かなマス目を描く。見本の「永」の字にも同様のマス目を描いて、文字の各部を座標点のように拾い、トレペのマス目にその位置を写していく。その点を繋いでいけば、見本と同じプロポーションの「永」の字が描ける。原理は正しい。しかし、そう旨くはいかないものである。課題の条件は「濃さFの鉛筆で描くこと。シャープペンは不可」「枠線とマス目以外はフリーハンドで描くこと」「文字の内部をムラ無く塗りつぶすこと」。夕方、どうにか仕上げたつもりで提出に行くと、「このへんがムラになってる。鉛筆粉の汚れもある。やり直し」。150人の新入生ほぼ全員が同じ状況で、終電で帰った記憶がある。トンデモナイところへ入学したものだと思った。

「永」の字を明朝体でレタリングさせる目的は、書道の「永字八法」に由来する。「永」の文字には、他の全ての文字に現れる8種類の運筆法が含まれるので、つまり「永」が旨ければ、どんな文字でも旨く書ける理屈になる。そんな説明をもらえたなら、まだ幾分は納得してレタリング課題に取り組んだと思うのだが、実際には何の説明も無いまま、「永」の字を何度もレタリングさせられたのだった。「永」の字から解放されたら、次に与えられた課題は「15ミリ間隔の横罫線を引き、各自の学籍番号と氏名をレタリングしろ」である。これも「濃さFの鉛筆。フリーハンド。内部をムラ無く塗りつぶす」は同じで、学籍番号はオルタネートゴシック体、氏名は細明朝体と指示された。そして、この課題以降、学部を卒業するまでの数年間の演習課題は、全ての提出物に必ずこのレタリングで学籍番号と氏名を書かなければ受け取ってもらえないと云う、トラウマになるようなことを強要されたのだった。氏名の字数が多い者や、画数の多い文字の者は親を罵った。自分の名前が「武者小路実篤」でなくて好かったと思う。

しかし、段差のある垂直面に一文字30センチ角で「有限会社岩井金属金型製作所」とレタリングすることを考えれば、自分が学生時代に課された演習内容などは甘過ぎると云うものだ。この極めて高い難易度のレタリングを、全く条件を変えずにそのまま学生への演習課題にしてみたいと悪魔のような気分になるのだが、それはそれで容易なことではない。履修者がたったの10人だとしても、必要な教室の広さをどう考えれば好いのか。そもそも、「全く条件を変えない」となれば、レタリングする場所は3メートル程の高さである。脚立が必要になるが、学校の管理課が所有している脚立の数はたかが知れている。脚立を求めて学校中を回る「借り物競走」から課題を始めるべきだろうか。この金型製作所のIさんに尋ねたら、屋号のレタリング作品を描いたのは知人の職人だそうだ。ある日、工場の前で一緒に酒を呑みながら歓談していたら、酔いが回った頃に勢いで描いてしまったらしい。課題条件の一つに「シラフは不可」を加えないといけない。その酒代は学校から出るのでしょうか。

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