はたらく音楽 ―アルマイトの栞 vol.84
向島の中小工場で機械の音を録ってダンス公演の音楽を作りたいと鈴木一琥さんが相談してきた。公演会場も工場。11月本番。急な話だ。友人の音楽家タニモト・タクに援護要請。この種の音楽作りを面白がって付き合ってくれる奇特な友人だ。タクと会い、「工場の音楽」について話をすると記憶の扉が開いた。「Coldcutの『Timber』って曲があったよね」。はい、ありました。YouTubeにPVの動画もありました。まさに「労働の音」の集積だが、映像の2分過ぎに一瞬現れる緑色の動物はなんだ?。働き者のカエルか?。
日常の生活音をサンプリングして音楽を組み立てたいと思うことは自分にもしばしばある。どうもそれは、何かしら自分の「病」のようなものに原因がある気がしていて、その「病」の症状は「生活音が音楽に聞こえることがある」と云う不可解なものだ。例えば、自宅の換気扇の回転し始める時のモーター音が『タンホイザー序曲』の冒頭に聞こえたり、エアコンの電源を切った瞬間の動作音が『亡き王女のためのパヴァーヌ』の冒頭に聞こえたりするわけで、それはやはり自分のアタマがおかしいのではないかと怪しむしかない。モノがぶつかった時の音でもこの症状は頻繁に現れ、外を歩いていて、たまたま風に煽られて地面に落っこちた空き缶の音が渡辺美里の『My Revolution』のイントロに聞こえた時は、「べつに、ファンではないのだが」と訝しく思った。道路工事の現場の音に至っては、かなりマズイことになる。工事現場には、「リズム隊」まで居るのである。
そんな「病」を抱えて、向島の工場なんかを訪れても大丈夫なものだろうか。ただでさえ、久しぶりにColdcutの『Timber』を聴いてしまった直後である。向島のあちらこちらから『Timber』が聞こえてしまう可能性も高い。工場の前で、うっかりリズムを取ってしまいはしないか。プレス機の前で、つい踊ってしまったら間抜けである。いや、むしろ、そんな職人が既に存在する可能性はないだろうか。歌や音楽の起源の一つが、集団労働などにおける掛け声にあることは、知られた話だ。それを考えれば、「電動打ち抜き機のリズムでラップをする職人」とか「旋盤とハモる職人」が存在しても好さそうなものだ。NC旋盤を前にして「テンキー入力でリズムも変えられるんですよ、ほら」と自慢されてしまったら、「エフェクトは内蔵ですか?」などと尋ねてしまいそうで、それはどう考えてもNC旋盤に関する会話ではない。
けれども、労働から音楽が自然発生する事実を踏まえれば、工場の日々の営みの音から「はたらく音楽」を掬い取る試みは差ほど奇異なことではない。「労働の音」がそのまま音楽に聞こえてしまったりするのは、むしろ当然のことかも知れず、どちらかと云えば、それが音楽の根源的な本質のようにも思えるのである。そして何の偶然か、窓の外で道路工事をしているが、しかし、この工事の音は今のところ音楽に聞こえない。全員のチューニングが狂っているうえに、奇妙なリズム感のメンバーがリズム隊の中に居る。メンバー間に、なにか確執でもあるのじゃないかと不安になる音色だが、実はそれすらも「はたらく前衛実験音楽」なのだとしたら、こちらも哲学的な気分で静かに拝聴すべきである。
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