Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

『人間椅子』を読む ―アルマイトの栞 vol.74

江戸川乱歩の『人間椅子』を朗読劇で上演すると聞いて、出掛けてみることにした。今風の言葉なら「ドラマリーディング」である。しかし、何を思って「乱歩をドラマリーディング」となったのか。そして、よりによって『人間椅子』である。たしかに、『人間椅子』はただ「読む」ほかない作品である。なにせ物語の大半は「手紙」だ。読むよりないではないか。それで出掛ける前に『人間椅子』を読み直した。あらためて読んでみると、どうにもこの作品は妙だ。なんとなく読んでいた時には気付かなかったが、もしこの作品を舞台で上演するならばと考えると、妙なことが気になり始める。

『人間椅子』は、乱歩の作品の中で、「告白もの」とでも呼べる部類のものだ。罪を犯した本人が、誰かにそれを告白する形式の作品である。その告白は「語り」か「手紙」で為されるのだが、『人間椅子』は手紙による告白手段を用いている。外務官僚の妻で作家でもある婦人の許に、多くのファンレターに混じって一通の封書が届く。婦人が開封して読んでみると、それはある未知の男が己の犯罪行為を彼女に告白する内容を記したものである。この告白の手紙が『人間椅子』の大半を占める文章である。そのことが、今さらながら気になった。「手紙にしては長過ぎるんじゃないか」。

『人間椅子』におけるこの手紙を、乱歩の記述に忠実に解釈するなら、それは先ず「かさ高い原稿らしい一通」として何通かの封書の中に登場する。婦人は当初、誰かが自分に読んで欲しい作品の原稿を送ってきたものだろうと考え、「封を切って、中の紙束を取り出し」た。その紙束は「原稿用紙を綴じたもの」である。しかし、そこには「表題も署名もなく」、いきなり「奥様」と呼びかける言葉で始まり、婦人は「はてな、では、やっぱり手紙なのかしら」と考えて読み始める。ここから延々と手紙の文章が記されていく。そしてやはり思うのである。「手紙にしては長過ぎるんじゃないか」。

自分でもどうかと思うが、この手紙の字数を数えてみた。14,972字だ。僕が時々頼まれて原稿を書く某雑誌ですら、多くて6,000字の依頼で、それでも書くのに苦労する。この手紙の字数はどうしたことか。原稿用紙に書かれていたと描写があるからには、一般的に考えるなら、それは400字詰めの原稿用紙だ。『人間椅子』が発表された大正12年の時点で、400字詰め原稿用紙は既に普及している。だとするならば、この手紙は原稿用紙38枚に及ぶ。手紙としてはただならぬ文章量である。それをさほど深刻に悩むでもなく、「はてな、では、やっぱり手紙なのかしら」と考えるこの婦人はどうかしている。

原稿用紙38枚はどれほどの量だろうかと思って、重ねてみた。3mmの厚さの紙束である。しかし、先に引用したとおり、この手紙は「原稿用紙を綴じたもの」である。「原稿用紙を綴じる」とは、一枚ずつ原稿用紙を半分折りにして重ね、右側を紐などで綴じた状態を指す。おのずと紙束の厚さは倍の6mmになる。自分宛に届いた封筒からやにわにそんな原稿用紙の束が出てきたら、人は先ずかなりの当惑をするのではないか。心当たりがないなら尚のことだ。その書き出しがどうであれ、「はてな、では、やっぱり手紙なのかしら」と考える者は、あまりいない。原稿用紙に書かれた奇怪な告白以前に、この婦人が奇怪である。

『人間椅子』は、この「手紙」を送って寄こした「男」の狂気を描くと見せかけて、実はこの婦人の狂気を描いてはいないか。告白の内容が真実なのか否かも作品解釈としては重要だが、この婦人が正気であるか否かも疑ってみる余地がありそうだ。読者がひとたび疑いの目を向ければ、どこまでも疑うことが可能で、明白な真実の所在が見えなくなる堂々巡りの罠に陥るのは、乱歩の他の作品についても同様で、とどの詰まりは乱歩自身が「どうかしている」のである。唯一つ明白なのは、「アノ雑誌では14,972字でも原稿料が割に合わない」などと云う、極めてどうでもいい僕の個人的な真実だけだ。

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