Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

身体の舞踊性、舞踊的な身体 ―アルマイトの栞 vol.4

年明け早々にTVを観ていたらジャッキー・チェンの「酔拳」をやっていた。1978年の映画である。確かに当時は随分とジャッキー・チェンが流行っていたものだ。学校の教室でジャッキーの真似ばかりして飛んだり跳ねたりしていたA君を思い出した。僕自身はさほど興味は無かったが、ともかくマニアなジャッキーファンはどのクラスにも居て、休み時間にはあちらこちらに「ジャッキー」が現れたものである。そう云うある種の懐かしさから、ついチャンネルを合わせてしまった。

改めて観ると、ジャッキーの身体性は舞踊的である。ジャッキーの身体性と云うより、中国拳法の身体性と云った方が正しいだろうか。「酔拳」は酔いながら千鳥足風に動いたりするわけだが、それでも体の軸がぶれることは無い。軸の置き所は連続的に変化しつつも、その瞬間瞬間の軸=重心は確実に安定した位置にある。筋肉の緊張と弛緩を交える中で、無意識的にであれ常に重力を感じていないと出来ない芸当であって、これはどう見てもダンサーの動きである。

日本の時代劇で云うなら「殺陣」にあたるのかも知れないが、日本の剣術がどちらかと云えば腰を落として重心を下半身に安定させ続け、摺り足で動くことが多いのに対して、アクロバティックな動きの多い中国拳法は爪先から頭に至るあらゆる場所に重心が移動する。その姿勢はありとあらゆる体勢の変化を取る。 宙に身を投げている時でさえ、身体はコントロールの手綱が重心を捉えていて、決して制御できない状況に身を抛り出すことは無い。

同じ様にバリエーションの多い体勢の変化を見て「舞踊性」を感じたものにサッカー選手の動きがある。随分前にワールドカップの試合を初めてTVで観た時に「これは即興で繰り広げられる舞踊ではないか」と感じた。すると、その後に読んだ三浦雅士の「考える身体」(NTT出版)に同様のことが書いてあるのを見付け、やはりそう感じるのは自分だけではないのだなと思った。

ロベール・ピニャールが「世界演劇史」(白水社)の中で、人間の身体を「人間が唯一自分で発明しなかった道具」と云った趣旨で記していたが、これは云い換えれば、「人間は己の身体を飼い慣らしていく」と云うことだろう。しかし人は普通、「身体を飼い慣らしている」ことを実感しない。だが、ある特殊な状況においてそれを実感する場合がある。

学生の頃、ホントに間抜けな理由で右足を骨折したことがある。一ヶ月程の松葉杖生活をするハメになったのである。病院で足をギプスで固定され、松葉杖を二本貸されて外に出たら、まあ見事に歩けない。止まりかけた独楽の様にフラフラで、とにかく重心の置き所の見当が付かない。足許をジッと見ながら慎重に前進を試みていると、脇を蟻が追い抜いていく始末である。「蟻って意外と速いじゃないか」と思った。こうして生まれて初めて「三本足の生活」に馴れることが始まった。しかし、時間が経つに連れて旨い重心の捉まえ方が出来るようになると、今度はこの三本足で階段を駆け上がり、駆け下りていた。今にして思えば随分危なっかしいことをしたものである。

話はそれで終わらない。一ヶ月後に無事ギプスが取れた時である。「さあ、二本足に戻りなさい」と云うその時、ギプスで固定されていた右足の筋肉はすっかり萎えてしまい、まるで力が入らない。二本足で立っていることすら出来ない自分がいた。小学校の教科書なんかに「人間は直立二足歩行する唯一の動物です」なんて書いてあったが、僕はギプスをしている間に人間では無くなっていたわけで、今度は「二足直立歩行」を再び獲得しなければいけなかったのである。「二足直立」と当たり前のように云うけれど、これを獲得することが人間に生まれたとは云え如何に大変なのかを思い知らされたのはこの時だ。今でも初等教育の教科書にあんなことが書いてあるなら、即座に書き換えた方が好い。「人間はその気になれば二足直立歩行も出来るかも知れない動物です。出来なくても人間は人間です」。これを、「差別を一掃する道徳的な発言」と受け取られては迷惑だ。単なる事実に過ぎない。

さて厳密に云えば、ギプスが取れて骨折する前の状態に完全に戻ったのは一年後だろうか。その間、歩いていると、ほんの数ミリだけ右足が左足ほどに上がっていないようで、微妙な段差で右足を躓くことがよくあった。商店街の通りなんかによくある洒落たタイル舗装の、そのタイルの僅かな高低差で躓くのである。スロープの勾配にも躓くのだから、こうなるとスロープの存在意義を根本から疑う気分になる。しかし僕はこの体験を空間の側の問題として捉えたのではなく、自身の身体性の問題として意識したのである。

こうして立て続けに「二種類の身体」を飼い慣らすことを経験した時、本来的に身体は舞踊的なものだと感じたのである。舞踊は、必ずしも音楽に合わせて優雅に動いたり、アクロバティックに動くことだけにあるのでは無い。日常的な立ち居振る舞いの全てに、根源的な舞踊が潜んでいる。茶を飲む仕草や、煙草に火を点ける仕草の中にも舞踊性を見付けることはある。ただ、当の本人も周囲の人も、あまりそれを実感することの無いだけだ。重心を捉えて身体をコントロール出来て居なければ、満足に煙草に火を点けることも出来ない筈である。当然、立つことも歩くことも出来ない。その重心の捉まえ方を、人はみなそれぞれ己に与えられた身体の条件下で飼い慣らすのである。日常の仕草の遙か延長に、もしくはその外部に舞踊があるのでは無く、身体とは既にそれ自身が舞踊を孕んだものなのである。

「三本足」になったばかりの僕が、当時美術家として世話になっていた舞踏家・和栗由紀夫さんの稽古場に顔を出したら、和栗さんに「お前はいま、一番好い舞踏の勉強をしている」と云われたのを今でもハッキリ覚えている。

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