Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

舞台用語の野生の思考 ―アルマイトの栞 vol.3

舞台に関わって仕事をするのなら、様々なコトバを覚えていかなければならない。 特に各種舞台備品の名前を覚えることは重要であり、且つ新人が最も苦労する課題である。
その中でも、とりわけ難易度の高いのが舞台照明器具の名前ではないかと思う。 舞台美術家として舞台に飛び込んだ僕には、ことのほか照明器具の名前を覚えるのが大変だった。 照明に関しては師匠が居ないので、独力で覚えていくより無かったのである。

舞踏のカンパニーで駈けだしの美術家だった頃、照明器具のレンタル会社に遣いに出されたことがある。「このメモを見せればわかるから」と云われ、一枚のメモを渡された。 そこには「エリ:6、パー:5、ベビー:5」などと書いてあった。
舞台照明について幾らかの知識がある人なら当然の様に理解出来るメモだが、当時の僕にはまるで意味不明のメモであった。そもそも、未だ照明器具の姿の違いすら見分けられなかった僕である。
「エリとかパーとかベビーとかって、いったい何のことだ?、誰かの名前か?」と思いながらボロボロのワゴンのハンドルを握って遣いに出たものである。

レンタル会社で黙ってそのメモを渡したら、「はい、わかりました」と返事をされて、当然の様に機材を出してくれた。まるで子供の遣いである。
これを機に、僕は照明器具の名前を覚えてやろうと思った。

稽古場や劇場で「一日に一つは必ず灯体の名前を覚える」と自分に課題を出して臨んだのだが、これが旨くいかない。さっき誰かが「ベビー」と呼んだ灯体を、今度は別の誰かが「転がし」と云うのである。 そして別の誰かが「アンバー」なんて呼び、挙げ句の果てには「工藤さん当て」などと呼ぶ始末である。
この支離滅裂さ加減に僕のアタマは混乱した。
しかし現場はまるで混乱していないのである。

クロード・レヴィ=ストロースの「野生の思考」だったと思うが、「名付け」に関する話があった。
未開の部族の集落にフィールドワークに入った西洋人の民族学者がその部族の一人にある植物の名前を尋ねた。民族学者は自分の国でも見たことのある植物の名前を、彼らのコトバで何と云うのか知りたかったわけで、彼らのコトバを覚えることが彼らを理解する最初の手掛かりになると考えたのである。
しかし返ってきたのは意外な答えである。
民族学者が同じ植物だと思って指さした群生するその植物を、部族の一員は一つずつ葉の枚数や花びらの枚数を数えて、それぞれに異なる名前を答えたのである。文化圏が異なれば名付けの体系も変わるのであり、それが一つの文化圏の価値観、乃至は意味の体系を表すのである。
民族学者は混乱したそうであるが、舞台照明器具の名前を覚え始めた僕も同様の困惑をした。

先の「ベビー」に関しては次の様な次第である。
先ず「ベビー」は、フレネルレンズの入った某照明メーカ製の500Wのスポットライトの愛称である。 その外観の小ささから「ベビー」と呼ばれる。 フレネルレンズと云うのはレンズに同心円状の溝が切ってあって、その結果、光は均一に拡散する。凸レンズの明かりが輪郭のくっきりした円を照らすのと反対に、輪郭のぼやけたフラットな明かりとなる。
「転がし」と云うのは舞台床置きに仕込んだ状態を指す。
「アンバー」はオレンジ色のカラーフィルターの名称。たまたまその灯体にアンバーのフィルターが仕込まれていたわけである。
「工藤さん当て」はダンサーの「工藤さん」に当てる光の意。

漸く解ったのは、舞台照明器具の名称は人の呼び名に似ていることである。 人にはその人固有の名前、愛称、そして組織の中で「班長」なんて呼ばれる役割上の呼称がある。 同じ人に対してこれらの呼称が共存しても人はたいして混乱しない。
照明器具の呼び名も同じなのである。

同じ事柄や器具に幾つもの呼び名があることは、大道具や機構、音響でも見られる現象である。
様々な舞台用語集や、舞台用語の各国語対照本などもあるが、実際にはそうした辞典の類に集約仕切れないのが舞台現場での語法である様に思う。 しかし、民族学的な発想はここにも適用出来るわけで、この様な一見錯綜した語法が何の問題も無く共存して居る事実の中に舞台の現場の「性格」を理解する手掛かりがあるように感じるのである。
舞台作業現場での「安全」を動機付けとして、用語も含めた様々な「規格」の作成が試みられる一方で、それが完全に定着しない「現場」がある。
「舞台創造の場」を人格に喩えるなら、その人格は分裂したままなのである。 いやむしろ、理性と混沌が共存して一つの人格を形成しているのかも知れない。

錯綜した語法の存在と、それらの規格統一を図る動きと、そのどちらが好いのかは正直云って僕には判らない。ただ少なくとも、現状を見る限りにおいては規格統一化とその完全な定着が困難であろうと云うことが推察されるだけである。純粋に理性のみで人格が形成され得ないように。
何にせよ、当面の間は新人スタッフが様々なコトバと格闘する状況が続くのだろう。

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