Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

舞踏はオリエンタリズムなのか!? ―アルマイトの栞 vol.13

年に二回か三回だけれど、仏事に出ることがある。先週の金曜と土曜も仏事だった。趣味ではない。世間の諸々のしがらみの結果である。わけがあって、ほとんどが浄土真宗か天台宗だ、たぶん。「たぶん」と云うのは僕の育った家庭が「キリシタン」なもので、つまり僕は「異教徒」だから、こう云うことに酷く疎いわけである。だから僕の目にはこうした仏事が「異国情緒」として映ってしまう。日本人として大丈夫だろうか。

そう云うわけで、不謹慎だけど、仏事に出ていると興味津々で見入ってしまい、読経の声を注意深く聴いたりして、これではまるで外国人旅行者である。まあ、読経の最中に居眠りしてしまうよりはマシだろう。面白いと云ったら語弊があるけど、つまりは仏事が一種の舞台芸術に見えてしまうのだ。特に天台宗のような、いわゆる密教系の儀式は隅から隅に至るまで「演出」である。空間、僧侶の動作、諸々の道具等々が身体表現作品として成立している。

ハッキリ云うなら、山海塾の公演を思い出すのだ。初めて天台宗の仏事に出た時、4人の僧侶が四角を描くように歩き、その四隅に立ち止まって同じ仕草を繰り返したのを見て、「あっ、山海塾」と思ったわけである。具体的には彼等の比較的初期の作品『卵熱』の幕開けがこんな感じだった。でも「山海塾に似ている」と思うのは明らかな間違いだ。山海塾の方が仏事に似ているのであって、僕が日本人として少しズレた目を持っているだけなんである。

おそらく、これがもっと極端になると「西洋人の期待するオリエンタリズム」になるんだろう。山海塾に限らず、舞踏の公演を観た西洋人がよく「なんて日本的なのか」と口走ったりするけれど、あんな日本人はどこにも居ないよ。スキンヘッドで眉まで剃り落とした白塗りの日本人なんて何処に居るんだ。だから西洋人の日本を見る目は不可解なのである。舞踏の動作にほんの少しばかり仏事と似たところがあるとは云え、本当にそれは「少しばかり」のことである。舞踏のどこに「日本」を見てしまうのだろうか、彼等は。そもそも彼等の云う「日本的」が何を意味しているのかが解らないのである。

よく解らないと云えばそれまでなのだが、少なくともかなりの西洋人が僧侶と舞踏家を同一視しているのは確かなようだ。そして僕等が驚くほどに舞踏に興味を持っているのだが、その興味の持ち方に僕なんかは戸惑うのである。昨年、ある舞台関係のアメリカ人と話した時、「オマエは何者か」と尋ねられ、面倒だったので「舞踏の舞台美術をしていた」と答えたら、もう目がキラキラするのだ。そして「あのホワイト・ボディペインティングにはものすごく興味がある」と彼は云うのだが、白塗りを「ボディペインティング」だと認識していることにも戸惑った。「ボディペインティング」って、なんかもっと他のジャンルのアートなんじゃないか。そして彼はその後、一緒に居た居酒屋の箸袋に興味を持ち、「なんて書いてあるのか」と云うので「魚民」だと教えたら、しばらく喜んで「ウオタミ」を繰り返していた。同じ次元なんだよ、興味の持ち方が。

誰の逸話だったか忘れたけど、ある大富豪のアメリカ人が日本に来て、日本をとっても気に入ってしまい、日光の東照宮を買って持ち帰りたいと云いだした。同行の日本人が「無理だ」と答えたら、「それならアレは買えるか?」と指さしたモノが派手な霊柩車だった。東照宮も霊柩車も欲しいとは思わない僕は、ともかく日本人であるようだ。西洋人の抱くオリエンタリズムの価値観は、たぶん僕にも当面は解らない。

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