Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

閉じ込められること ―アルマイトの栞 vol.107

鈴木一琥さんのダンス公演『龍の声』は本番まで一ヶ月を切った。アタマの中がザワつき、鳩尾の辺りに焦燥感を覚え、それは残り少ない本番までの時間が原因かと思ったが、どうも違う。漠然と、「閉じ込められた」としか表現できない気分にも苛まれる。自分の居場所が牢獄などに移ったわけではない。いったい、自分を閉じ込めているのは何なのかと考えを巡らせたら、どうやらその正体は長編小説だった。例のごとく、半村良オフィシャルTwitter更新のために手を出した半村作品は『超常領域』で、そこで足止めされて随分と時間が経過していた。本文が24字×21行の、しかも二段組みで、総頁数341の世界に閉じ込められたらしい。帯文に記された、「巨匠」が「構想3年」はダテではない。

『超常領域』の物語じたいが、「閉じ込められる話」だ。一人の男が、旅先で気まぐれに立ち寄った町から出られなくなってしまう。その「閉じ込められた」状況が延々、24字×21行の二段組み×341頁も続いているのである。奥付を見ると、この作品は二年二ヶ月に亘って月刊誌に連載されていたらしく、つまり二年二ヶ月もの間、「閉じ込められた男の話」が続いていたわけで、そのこと自体が、作品以上に不条理である。読者が得体の知れない閉塞感に襲われるのも仕方のないことだ。町からの脱出を試みても、それがどうにも叶わず切迫していく主人公の心理状態が、イヤでも読者に感染する。そして、「閉じ込められる話」で思い出すのは、安部公房の『砂の女』だ。

『砂の女』も、やはり一人の男が旅先で転がり込んだ砂地の中の一軒家から出られなくなる話だ。どう試みても逃げ出せない状況は、『超常領域』と同じだが、『砂の女』を読んで閉塞感に襲われた憶えはない。もしかして、物語の長さに原因がありはしないかと、書棚にある新潮文庫版『砂の女』を開いた。本文は43字×17行で230頁だ。『砂の女』も一般には長編小説の部類だが、文字数を単純計算すると『超常領域』は『砂の女』の2倍強になる。驚いた。べつに、文章量を文学作品の評価尺度にしようなどとは全く思っていないが、『超常領域』の「閉じ込められ加減」は尋常ではない。閉じ込められる状況は何であれ酷く嫌悪して逃走を試みる自分が、迂闊にも罠に掛かった気分である。

ふと、ダンス公演『龍の声』は、会場が第五福竜丸であることが気になった。船もまた、人を閉じ込める環境だ。井の頭公園の貸しボートならともかく、遠洋航海の船に乗れば逃げ出しようがない。閉じ込められることで呼び起こされる不安感の原因は、おそらくその空間の狭さではなく、その状況に置かれる時間の長さだ。だから、もし、水上で総トン数140tの福竜丸から三日間出られないか、井の頭公園の白鳥型ボートから二年二ヶ月出られないかのどちらかを選べと云われたら、少なくとも自分は前者を選ぶ。「航海」と呼び得る閉塞状況での不安感が、対象を問わず時間に比例するならば、一琥さんの『龍の声』は、その趣旨から考えるに、八時間くらいの大作にすべきではないか。むろん、休憩など無い。

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