Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

舞台美術を考えながら ―アルマイトの栞 vol.44

080517.jpg 黒テントの『玉手箱』は既に立ち稽古や通し稽古が始まっている。僕も舞台美術のプランを練る宿題に追われたここ最近である。台本とは全く関係無いのだけれど、今回の美術プランを考えていた時にふと思い出したのは画家の金子國義である。「エロスの画家」である金子國義が1966年に澁澤龍彦訳で出版されたポーリーヌ・レアージュ作『O嬢の物語』の挿絵を描いた。その絵を美術のモチーフにしようと思いついたのだ。それで、金子國義の画集などを広げて考えたりしているうちに、『O嬢の物語』そのものを読み始めてしまった。僕の手許にあるのは1992年に河出書房から出た文庫版で、残念ながらこれには金子國義の挿絵はない。表紙はフォンテーヌブロー派の『貴婦人たちの入浴』の一部が使われている。

主人公の「O」は次から次へと多くの男の「奴隷」として弄ばれ、「行為」はどんどんエスカレートして過激さを増すが、それとは裏腹に「O」の魂は浄化されていく。不思議な小説だ。鎖でつながれ、鞭で打たれ、男のイニシアルを焼き鏝で尻に刻印される中、彼女の魂は清んでいく。『玉手箱』の台本に「ある娘」が「私は、あなたみたいに心は汚れてないから」と男に云う場面があって、何か「O」との共通点のようなものを感じた。自分の肉体を時には傷つけ、極限までその肉体を貶めることで魂の安らぎを得ていくのは「O」もストリッパー一条さゆりも同じだったのではないかと思う。

「O」も一条さゆりも、一見すると男達に弄ばれる道具のような存在だが、実は道具に成り下がることで本人の魂が救われていく、ある種の宗教的な恍惚にも似た中に居るのである。苦行や殉教における恍惚とそれは似ている。こんなことを書くと「男の視点だ」と云われるかも知れないし、『玉手箱』の作者である坂口瑞穂さんはたしかに男だけれど、更に過激な『O嬢』の作者ポーリーヌ・レアージュはフランスの女流作家ドミニック・オーリーの匿名である。女性の視点でこの小説が生まれたことが何より興味深いのだ。

この世界に生まれ落ちた時から、僕らは肉体から1mmたりとも外へ出て行くことは出来ない。一生、この肉体と云うものに幽閉されて生きるしかないわけだ。この「牢獄」のような肉体の中で、僕らは傷ついたり泣いたり笑ったりしている。もし仮に、この「牢獄」から解放されたいと望むなら、それは「脱獄」を意味するわけで、詰まるところ己の肉体を徹底的に傷つけ貶める行為に行き着くのだろう。一条さゆりと「O」は「脱獄」を試みた女性なのであり、澁澤龍彦の表現を借りれば「苦行の果てに神の愛を知った中世の聖女」なのである。

「脱獄」を目指す行為の行き着く果ては書く必要も無いだろう。そして僕は「脱獄」を奨励する者ではない。ただ、己の幽閉されている肉体に意識的になること、それが大切である。孤独な独房に幽閉されていることに意識的になることで気付く生の意味もあるはずだ。『O嬢の物語』はそのことに気付かせてくれる小説であると同時に、『玉手箱』の舞台を更に深く味わうための貴重な薬味であるように僕には思えるのである。

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