Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

台本を読む ―アルマイトの栞 vol.42

忙しいからなのか、それとも自分の怠惰のせいか、ここしばらくまともに本を読んでいなかった。自分の人生で猛烈に本を読んだのは十代後半から二十代にかけてだろうか。支離滅裂にいろんなものを読んでいた。その中でも圧倒的に高い比率で読んでいたのは小説だ。芥川龍之介にのめり込む一方でウィリアム・バロウズも読む支離滅裂さだった。そうしていつの間にか小説から遠ざかっていた。相変わらず興味の赴くままにいろんな本を漁っているけれど、なぜか小説を読まなくなっていたのである。何か明らかな原因があるのではなく、ただ「なんとなく」小説から遠ざかった。

そして久しぶりに小説を読んだ。劇作家で演出家の宮沢章夫さんが雑誌『新潮』の4月号に小説を発表したのである。タイトルは『返却』。この小説が発表される少し前に宮沢さんと会った。宮沢さんに本を数冊ほど貸すことになって、ウチの近所のファミレスで会ったのだけど、気がつけば二人で3時間以上喋っていた。文学やら映画、音楽、それから政治のことやくだらないバカ話など、なんだかお互い気の向くままに話題が飛び移っていったのだけど、その折に宮沢さんが驚くことを口にした。「図書館で31年前に借りたままの本が家にあってさ、で、それを返しに行ったら図書館が無くなってたんだよ」。この人はどんな人なのか。そしてどうやらその話をモチーフに小説を書いたそうだ。少なくとも僕の貸した本は返して欲しい。しかし『返却』は面白かった。不条理なことを「条理」のようにさらっと描いてしまうのは、宮沢さんの舞台作品と同じく見事な手際だった。冷静に考えればかなりトンデモナイ人である。

『返却』と前後してもう一つ読んだのは、劇団 黒テントの座付き作家である坂口瑞穂さんの新作『玉手箱』の台本である。これはTetra Logic Studioとして舞台美術を頼まれた作品で、今年の5/30(金)から6/15(日)まで神楽坂のtheatre iwatoで上演される。作品の題材は「伝説のストリッパー」として60年代から70年代にかけて世間を賑わせた一条さゆりの後半生だ。本人が語ったり書いたりした彼女の人生は脚色や歪曲なども多く、後世にいろんな評者がその実人生を明らかにしているが、『玉手箱』ではその虚実の入り交じった一条さゆりの姿を、虚実の交錯するそのままの世界として描いている。「一条さゆりとは何者だったのか」を考えさせられるだけでなく、こちらの様々な思考を刺激してくれる作品だ。舞台美術を担当するからと云う意味からだけではなく、考えながら繰り返し読んでみようと思う。

しかし、一般に舞台美術家と呼ばれる人はどのように舞台を創るのだろうか。僕はその種のことを専門的に学んだ者ではないし、ましてや体系的にその知識を身につけたわけではない。強いて「師匠」を挙げるとすれば、僕が舞台の世界で最初に出遭った舞踏家の和栗由紀夫さんと、絵の先生である画家の小田正人さんの二人だけれど、舞台美術に特化して何かを学んだわけではない。それなのに気づけば舞台美術に手を染めていたのだから不可解である。だが僕の場合、かなり邪道な舞台美術家なのではないかと思う。和栗さんの好善社を離れた後、Cheap Thrillと云うユニットを作って舞台などをやっていたが、そもそもここでの舞台の創り方がヘンだった。

Cheap Thrillで舞台をやる時は、先ず最初に僕がタイトルだけ決めてしまうのである。そのタイトルにほとんど深い意味は無い。あるのはふとアタマに浮かんだタイトルだけだ。それから何となくのテーマとキーワードを決めて、それを座付き作家や音楽家、役者などの関係者全員に配って話をする。それで、各自はそのタイトルやキーワードから勝手に物語を書いたり、音楽を創ったりして、それぞれが何かしら出来た頃に作品を持ち寄って、最後は何故か一つの舞台になってしまうのである。当然、僕は僕で勝手に美術を考えているわけで、つまり「台本ありき」では全く無い。このやり方で、ある舞台作品の際に「真っ当な役者」を客演で頼んだところ、稽古の時に「ユキさんたちの舞台作りは邪道です」みたいなことを云われた。バリバリに大学の演劇サークルで演劇を学び、野田秀樹に憧れて劇団を作り、台本を書いたり演出もしていた男である。そのとき、僕は何と答えたか記憶に無いが、ともかく「邪道は百も承知」だったことは確かだ。

舞台を創るときに、「台本ありき」だったり「演出家が一番エライ」みたいな世界に疑いの眼差しを持っているだけなのである。「全部ありき」だっていいじゃないかと思う。音楽から舞台をイメージしてしまうことだってあるのだ。ムーンライダーズの楽曲はどれも舞台になると、今でも思っている。何も台本の存在を軽んじているわけではない。全ての要素や人が等価であって好いと云うだけのことだ。何よりも、いろんな要素を等価に扱って稽古場に持ち込んだとき、そこでの集団の想像力はたった一人の想像力よりも遙かに面白いものを生み出すのである。だから、間違っても演出家が怒って灰皿を投げるような稽古場はロクなものを生まない。

まあ、『玉手箱』は台本が最初に現れたわけだから、それを読むのが最初の仕事だ。けれども、出来ることなら全ての要素を等価に扱いながら、集団の想像力で舞台を創っていければと思う。僕自身も舞台美術の仕事は久しぶりだから、ともかく愉しみだ。Cheap Thrillでやっていた頃と比べて自分もなにがしかの変化はしているだろうし、刺激される舞台や映画も数多く観てきた。今の自分が舞台とどのような関係を切り結ぶことが可能なのか、試したいことは多くある。

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