Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

演劇のコトバ ―アルマイトの栞 vol.14

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告知を兼ねて書くけれど、またまた黒テントを手伝っているのである、Tetra Logic Studioは。早稲田大学のキャンパス内にある演劇博物館で『劇団黒テント39年の足跡~終わりなき旅~』と云う企画展示をやる。正確には既に一次展示を3月から演博の3階廊下だけを使ってやっていて、6月1日からはこれに展示室を使った二次展示が加わり8月5日まで続くスケジュール。この二次展示の展示計画を頼まれたのである。なにか面白い展示内容にしたいと思っているのだが、まあお愉しみと云うことで、ここに詳しく書くのはやめよう。だから、もし足を運んでくれる人が居るのなら6月1日以降がお薦めである。

それにしても演劇を観る度に思うのは、そのコトバの過剰さである。なんでこれほどにもコトバに溢れているのだろうかと云う思いである。僕自身の出自がコトバの無い舞踏の世界だから余計にそう思うのかも知れない。しかし、舞踏にコトバが無いわけではない。「身体言語」とでも云うべきコトバは確かに存在するのである。だから、僕が演劇に感じるコトバの過剰さと云うのは「音声言語」の過剰さなのだろう。

日常の生活の中で、人はそんなに喋るものでは無いように思う。少なくとも、演劇のように会話がよどみなくテンポよく進み、加えてその会話の内容が理路整然と展開するような場合は滅多に無い。演劇は会話の内容に無駄が無いのである。だから演劇を観る者は、日常会話と異なる集中力を要求されるわけだろう。

演劇におけるコトバとは何だろうか。一つ思うのは「一人のコトバ」だと云うことである。舞台の上で複数の役者が展開する会話であっても、その戯曲を書いたのは一人の劇作家である。だから「会話」とは云っても、それは一人のアタマの中で構築された「会話的な独り言」なのだと思う。そうならざるを得ない「演劇におけるコトバ」とは何なのだろうか。最近ある芝居を観て、改めてそんなことを考えた。しかし、そう簡単に答えが出ることではないよなあ。難しい問題だ。考え続けることが大事なんだな、きっと。

まあ、逆の見方をすれば、僕等の普段の日常会話と云うのは、なんと無駄の多いものなのだろうか。殆どが情報としてはノイズのように感じるわけである。云いかえるならば、「脈略の無さ」と云っても好い。大学で学生が無駄話をしているのを傍らで聴いていると「人間も無駄吠えをするのだな」と思う。「無駄の無さ」と「無駄の塊」と云う違いが、演劇におけるコトバを考える手掛かりかも知れない。

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