Tetra Logic Studio|テトラロジックスタジオ

建築・舞台芸術・映像を中心に新しい創造環境を生み出すプラットフォームとして結成。プロジェクトに応じて、組織内外の柔軟なネットワークを構築し活動を展開。

唄う芸能の生命力 ―アルマイトの栞 vol.12

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どうも学生と呑みに行くと、最後はカラオケに連れて行かれ、挙げ句の果てに終電を逃し、朝まであの狭い部屋の中に拉致される結果になることが多い。カラオケと云うものは取り立てて好きではないのだけど、とは云え毛嫌いしているわけでもないので、まあ行ったら行ったでそれなりに付き合うわけである。
それにしても、代わる代わるに誰かが唄い、時には合唱しているあの状況は何なのだ。

人が集って歌を披露したり、大勢で歌を唄うと云う行為は古今東西を問わずに見られる現象である。まあ云ってみれば「芸能行為の原初形態」とでも定義できるだろうか。僕は歴史が専門ではないので、あくまで印象的な意見なのだが、どうも人間の社会は文明化するほどに人が声を出さなくなるのではないかと思うことがある。少なくとも、大声を出す機会は減る。例えば読書と云う行為も、本来は音読が一般的であった。そこに鉄道が登場し、長旅の車中で本を読む行為が生まれた時、黙読と云う行為が現れる。声を出さないのである。
それともう一つはメディアの発達による人の「無口化」である。「お喋り」の他にメディアが無ければ、人は噂話をしあうことで情報を伝達する。しかしラジオやTVの登場は一方通行の情報伝達を可能にするから、人はその音声を聴くだけになる。そもそも僕自身、家で仕事をしている時なんかは、一日中誰とも喋らず、声を発しないまま長時間過ごすことも多い。

そうした文明化の果ての現代人の在り方を劇作家・演出家の太田省吾さんは「人間の常態は無言である」と云った。確かに、一日の大半、現代人は無口である。けれども「無言」が「常態」であるにせよ、それは本来的な人間の状況なのだろうか。むしろ人は声を出したい生き物なんではないか。そうでなければ、人間と云う動物だけが他の動物に比べて複雑な機能を持つ声帯を獲得した理由が解らない。

で、携帯電話に対する欲求みたいなものを考えると、やはり人は声を出したいのだろうなと思う。電話にせよメールにせよ、かなりの人が誰かと四六時中コミュニケーションを取りたがって居る状況は、つまり「絶え間ないお喋り」への欲求である。視聴者参加型のデジタル放送とかミクシィなんかもね。文字を打つことに行為が置き換わっても、その根底には「発声の衝動」みたいなものがあるのではないかと思うのである。

しかし結局のところ、周囲をはばからずに本当に大声を出せる機会はカラオケになってしまうのかもしれない。唄うと云う行為は喋る以上に声帯を振動させるわけで、人間にとってこれはもう「声帯の悦び」である。と同時に、どんなに文明が人間に無口であることを強いようとも捨てきれない悦楽であり、芸能なんだと思う。ある時点までは「無口」に向かった文明の発展が、ここへきてまた様々な方面で「発声の衝動」に従う方向に向かいはじめたと云うことだろうか。

すると、文明は発展しつつも、人間そのものは回帰現象の中にあるのか。カラオケと云う商品が世界の広い地域で受け入れられてしまう状況からすると、人間そのものの根底に「唄う衝動」が横たわっていて、それが回帰してきているのではないかと云う気がする。プロの歌手だってカラオケが好きだったりするわけだから。どうやら芸能行為の中で一番しぶとい生命力を持つのは歌なんである。演劇のひ弱さを痛感してしまうな。

そんなことを考えながら、朝まで学生と一緒に新宿のカラオケに居たわけである。学校ではおとなしくて無口な、まるで植物みたいなヤツがTM NETWORKの「Get Wild」を叫ぶように唄っているのを見ると、どう考えたって「唄う芸能」の不可思議な力の存在を信じてしまうじゃないか。その不可思議な魔力が僕に「恋のバカンス」なんぞを唄わせるのである。

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